バルトによれば、西洋演劇の基盤は現実の幻影の点にあるのではなく、全体性の幻影の点にある。つまりその抒情芸術にあっては、表現の根源が唯一不可分であり、それは数々の表現の同時的総合とされる。その場合の根幹となるものは肉体であって、そこに要求される全体性は有機体の統一を規範として持っている。(「つまり西洋演劇は類人猿的なのである。」)さらに対照法が文化の特権的文彩を成す西洋にあっては、内面が外面を支配すると考えられ、その結果登場人物から俳優へとつながる運動の絆は、内面を外在化する道として考えられている。(「その演技のモデルは、愛撫ではなく、専ら内在的な”真実”となる」)よって、「魂」と「肉体」の換喩法的な感染を受けた西洋の俳優は、自分の役との距離を置かずに自分の肉体と感情をその役の中につめこむ態度を取り(「俳優の入魂の業」)、それをバルトは「ヒステリー」と形容している。
西欧における操り人形もまた、バルトによればこうした対照法から来る二律背反(生物/無生物、内部/外部)の枠を越えるものではない。それは「俳優にその反対物を映して見せる鏡の役目を負っている。」つまりそれは人形の劣等性と無自動性の無価値ぶりをよく示すためのものであって、「魂」の限界を指示する「生命」のカリカチュアにすぎない。その裏には俳優の生きた肉体の中にこそ、美と真実と感情があるという肉体観が潜んでいる。(だが、その俳優の行為とは実は身振り以外の何ものでもなく、俳優はその肉体観を使って虚偽を作る。)
これに対して日本の文楽はどうか。バルトは文楽が三つのエクリチュールから成っていることを強調する。すなわち、操り人形、人形遣い、”声師”の三つであり、それぞれ、外在化される動作、外在化する動作、声の動作に相当している。これら表現の諸コードが互いに分離することによって、文楽は西洋演劇が指向するところの有機的統一から免れることになる。それはブレヒトの提唱した距離(異化)の効果と相通じるものである、と彼は言う。
文楽における声、それははっきり限定された、本質的に卑俗な機能を負うものであるが、そこに集められてくる感情の氾濫のコードそのものによってのみ与えられる。したがって、声によって外在化されるのは声が運んでゆくもの(「感情」)ではなく、声そのものなのであって、それは「声のおのれ自らの外在化」なのである。そしてこのパロール(せりふ)がいわば演技の傍らに寄せ集められることによって、西洋演劇において粘着しているこの二つの実質がまず解離される。
そこで解離された演技の側の動作は二重になっている。すなわち、操り人形の側での情調の動作と人形遣いの側での他動的な動作である。そこでは西洋において「内在性」が占めていた場が「労働」に取って代わられる。つまり文楽は行為と身振りとを分離し、両方を共に見せる訳であり、人形に移された所作的なエクリチュールと他動的なエクリチュールという二つの沈黙のエクリチュールが特別な昂揚を生み出していく。その際西洋文化、西洋演劇のメルクマールを成していた「基本的二律背反」という理念は掻き乱され、消滅する。文楽の人形は俳優の猿真似をしているのではなく、だから文楽が求めているのは「肉体」の模倣なのではなく、言うなれば「肉体」の感覚的抽象化なのである。それは生命なき物質がこの舞台上では、生命ある肉体よりも無限に、より多くの厳粛と戦慄をもたらすという肉体観に依っている。文楽にあっては「魂」という概念自体が追放されているのだ。(「文楽がより深く変質させているのは登場人物から俳優へとつながる運動の絆である。」)よって、「魂と肉体の換喩法的感染」から免れた演劇である文楽では、西洋の人間が想定しがちな形而上学的因果関係は全く廃棄されている。動作主である人形遣いは無感覚なまま、素顔(あるいは黒子)を人前にさらけ出す。だがそのエクリチュールがさらけ出しているのは、実は、読み取るものが何も無いということなのだ。そこには「意味の廃絶」がある。これこそはバルトにとって「純粋なエクリチュール」そのものに他ならない。総合的でしかも分離された演劇、それが文楽である。
【参考文献】
Roland Barthes; L'empire des signes (1970)
Lecon
d'ecriture ("Tel Quel" 1968)
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