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2007/06/16

『彼方からの愛』(フィンランド国立歌劇場)

Dvdamour_de_loin DVDライブラリーより。

フィンランドの女流作曲家カイヤ・サーリアホが、ヨーロッパとオリエントとの出会いをテーマに掲げて作曲した現代オペラ。ザルツブルク音楽祭総監督(当時)だったジェラール・モルチエからの委嘱を受け、2000年8月にピーター・セラーズの演出、ケント・ナガノの指揮により、ザルツブルクにて世界初演された。時代は12世紀。フランスのアキテーヌの王子にして吟遊詩人であるルーデルは、まだ見ぬ恋人、トリポリに住む伯爵令嬢クレメンスに会うため舟に乗って海を渡っていくが、途中重病にかかり、ようやく出会えた恋人のもとで死んでいく。

舞台上に水を張って海を表わし、左右両端には光りを発する螺旋階段を配置し、二人の距離を示す。ピーター・セラーズのシンプルな構成による舞台の中、歌手たちがずぶ濡れになって熱演する。セラーズといえば現代化。サーリアホの処女オペラ作品であるこの中世の恋愛譚も、やはり現代的な趣向が取り入れられているものの、その描き方は作品の世界にかなり忠実で、けして遊離しない。サーリアホの透明な音楽とあいまって、海に隔てられた恋人たちの心情を切々と表現していて、見事だ。

余談をひとつだけ。カーテンコールでサロネンが長靴を履いて舞台に出てきます。しょうがないとはいえ、笑った(爆)。

★★★★

クレメンス:ドーン・アップショウ
ルーデル:ジェラルド・フィンリー
巡礼者:モニカ・グループ

作  曲:カイヤ・サーリアホ
台  本:アミン・マーロフ
合  唱:フィンランド国立歌劇場合唱団
管弦楽:フィンランド国立歌劇場管弦楽団
指  揮:エサ=ペッカ・サロネン
美  術:ジョージ・ツィピン
演  出:ピーター・セラーズ

[  収録:2004年9月、ヘルシンキ  ]

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コメント

>カーテンコールでサロネンが長靴を履いて舞台に出てきます。
それだけで、見たくなりましたが、日本語字幕なさそうですね。

投稿: keyaki | 2007/06/17 02:20


keyakiさん、どうも。
好奇心がうづくでしょ?(笑)

字幕は日本語なしです。
残念ながら・・・

投稿: Orfeo | 2007/06/17 08:23

 …どうも、あまりよく判らないのは、このサーリアホなんちゅう、純粋音楽志向の、オペラというジャンルにはほど遠いような作曲スタイルを持った作曲家が、どうして、えらいエネルギーを費やしてオペラなんかを書きたがるか?ということ。なんか、シューベルトやシューマンの時代とたいして変わらないオペラ志向なんですが、メシアンをはじめ、フィリップ・マヌーリとか…、無理してオペラなんか書く必要はないんじゃないの?…。ブーレーズや武満徹はついにオペラなんか書かなかったでしょ。
 それに対し。ブーレーズ世代なら、ベリオとかシュトックハウゼン、リゲッティ、モーリス・オアナ…みたいな芝居がかった奴ら(笑)がオペラに向かうのは当然のことなんだよね。サーリアホ世代なら、ペーター・エトヴェシュとかパスカル・デュサパン、フィリップ・エルサン、フィリップ・フェヌロンといった連中は、最初から演劇に強い関心を抱いていた人たちだし。オペラへ進むことが論理的帰結だと思えるんですが、サーリアホ…ねえ(笑)…。

 それに「時代は12世紀。フランスのアキテーヌの王子にして吟遊詩人であるルーデルは、まだ見ぬ恋人、トリポリに住む伯爵令嬢クレメンスに会うため舟に乗って海を渡っていく」…なんて話を聞かされちゃうと、も〜う、いい加減にせい!、って言いたくならない?…。いったい私たちは相も変わらずヘンデルやモーツァルトの「オペラ・セリア」の時代を生きてるんでしょうかねえ?…なんて(笑)。ヴェルディが《椿姫》でああいう主題を採り上げ、ベルクが《ヴォツェック》で…というオペラ史がまるで存在しなかったみたいに、どっかの国の駅弁作曲家みたいに各地の伝説やら伝承なんかを主題に、もっともらしい神話じみたオペラをでっち上げてみせる…という因習にどうしても従ってしまうという自分をどう考えてるんだろうねえ?…。そう、ブーレーズだって、最初に構想したオペラにジャン・ジュネ(『屏風』)を選んでるんだよね。…まあ、ブーレーズがギリシャ神話を主題にオペラなんか書いたとしたら、それこそ爆笑ものだったろうけど…。
 その点、R・シュトラウスという人は、もうちょっと羞恥心というものを持っていた人で、だから《ナクソス島のアリアドネ》みたいに劇中劇化、パロディー化せずには、あの手の主題を採り上げられなかった人なんだよね。まあ、この世の音楽評論家とかオペラ演出家といった人種には、この作品がオペラというジャンルそのものを主題としたメタ・オペラだということにまるで気が付かないお人好しも多い、ということも確かなんだけど…。
 どうも、このようなお話をでっち上げて、「ヨーロッパとオリエントとの出会いをテーマに掲げ」ました、などと称する人たちの知的水準というのは相当退化しているとしか思えないよ!…。どうせならブーレーズみたいに同じコンサートの前半でバリ島の本物のガムラン楽団の演奏を配し、後半に自身の《レポン》を組む…みたいに、無作為に本物を二つド〜ンと並べちゃった方が「ヨーロッパとオリエントとの出会い」あるいは「非=出会い」になるんじゃないかなあ?…なんて。
きのけん

投稿: きのけん | 2007/06/28 13:51


・・・まあ、「ヨーロッパとオリエントとの出会い」というテーマを掲げたのは、サーリアホじゃなくてモルチエのほうみたいだから、どうなんでしょ。モルチエって、ザルツブルクではこういう路線ばっかり追い求めていたでしょ。97年のミンコの《後宮》もそうだった。彼にとってのザルツブルクというのは、右傾化していくオーストリアの政情にとことん反旗を翻す、デモンストレーションの場といった感じがしましたよね。

そして、この《彼方からの愛》をセラーズに演出させているのは正解だと思います。解説を読んじゃうと、なるほどこれは12世紀のお話なんだけど、そんなの、なんの意味も持たないんですよね、これ。そういう具象性をさっぱりそぎ落としたところでサーリアホも作っているし、セラーズも組み立てている。まあ、それで二つの世界が交わったところに待っているのが「死」というのは、いかにも逆説的なアイロニーだとは思いますが・・・。

投稿: Orfeo | 2007/06/28 18:40

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