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2007/04/11

ロラン・バルト~文楽とエクリチュール

 バルトによれば、西洋演劇の基盤は現実の幻影の点にあるのではなく、全体性の幻影の点にある。つまりその抒情芸術にあっては、表現の根源が唯一不可分であり、それは数々の表現の同時的総合とされる。その場合の根幹となるものは肉体であって、そこに要求される全体性は有機体の統一を規範として持っている。(「つまり西洋演劇は類人猿的なのである。」)さらに対照法が文化の特権的文彩を成す西洋にあっては、内面が外面を支配すると考えられ、その結果登場人物から俳優へとつながる運動の絆は、内面を外在化する道として考えられている。(「その演技のモデルは、愛撫ではなく、専ら内在的な”真実”となる」)よって、「魂」と「肉体」の換喩法的な感染を受けた西洋の俳優は、自分の役との距離を置かずに自分の肉体と感情をその役の中につめこむ態度を取り(「俳優の入魂の業」)、それをバルトは「ヒステリー」と形容している。

  西欧における操り人形もまた、バルトによればこうした対照法から来る二律背反(生物/無生物、内部/外部)の枠を越えるものではない。それは「俳優にその反対物を映して見せる鏡の役目を負っている。」つまりそれは人形の劣等性と無自動性の無価値ぶりをよく示すためのものであって、「魂」の限界を指示する「生命」のカリカチュアにすぎない。その裏には俳優の生きた肉体の中にこそ、美と真実と感情があるという肉体観が潜んでいる。(だが、その俳優の行為とは実は身振り以外の何ものでもなく、俳優はその肉体観を使って虚偽を作る。)

 これに対して日本の文楽はどうか。バルトは文楽が三つのエクリチュールから成っていることを強調する。すなわち、操り人形、人形遣い、”声師”の三つであり、それぞれ、外在化される動作、外在化する動作、声の動作に相当している。これら表現の諸コードが互いに分離することによって、文楽は西洋演劇が指向するところの有機的統一から免れることになる。それはブレヒトの提唱した距離(異化)の効果と相通じるものである、と彼は言う。

 文楽における声、それははっきり限定された、本質的に卑俗な機能を負うものであるが、そこに集められてくる感情の氾濫のコードそのものによってのみ与えられる。したがって、声によって外在化されるのは声が運んでゆくもの(「感情」)ではなく、声そのものなのであって、それは「声のおのれ自らの外在化」なのである。そしてこのパロール(せりふ)がいわば演技の傍らに寄せ集められることによって、西洋演劇において粘着しているこの二つの実質がまず解離される。

 そこで解離された演技の側の動作は二重になっている。すなわち、操り人形の側での情調の動作と人形遣いの側での他動的な動作である。そこでは西洋において「内在性」が占めていた場が「労働」に取って代わられる。つまり文楽は行為と身振りとを分離し、両方を共に見せる訳であり、人形に移された所作的なエクリチュールと他動的なエクリチュールという二つの沈黙のエクリチュールが特別な昂揚を生み出していく。その際西洋文化、西洋演劇のメルクマールを成していた「基本的二律背反」という理念は掻き乱され、消滅する。文楽の人形は俳優の猿真似をしているのではなく、だから文楽が求めているのは「肉体」の模倣なのではなく、言うなれば「肉体」の感覚的抽象化なのである。それは生命なき物質がこの舞台上では、生命ある肉体よりも無限に、より多くの厳粛と戦慄をもたらすという肉体観に依っている。文楽にあっては「魂」という概念自体が追放されているのだ。(「文楽がより深く変質させているのは登場人物から俳優へとつながる運動の絆である。」)よって、「魂と肉体の換喩法的感染」から免れた演劇である文楽では、西洋の人間が想定しがちな形而上学的因果関係は全く廃棄されている。動作主である人形遣いは無感覚なまま、素顔(あるいは黒子)を人前にさらけ出す。だがそのエクリチュールがさらけ出しているのは、実は、読み取るものが何も無いということなのだ。そこには「意味の廃絶」がある。これこそはバルトにとって「純粋なエクリチュール」そのものに他ならない。総合的でしかも分離された演劇、それが文楽である。

【参考文献】

Roland Barthes; L'empire des signes (1970)
             Lecon d'ecriture ("Tel Quel" 1968)

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コメント

 おっ、すごいのが出ましたなあ!…。ただ、我々ごくフツーの知性を備えた人間にとってはあまりにハイブローな議論なんで、我々並みの頭脳を持った人間にも解るように、しっかりと噛み砕いた説明をお願いします。というのも、CineKen2=きのけんの見るところ、この評論から浮き上がってくるロラン・バルトがやたら衒学趣味、アカデミックで官僚的に見えるから…。つまり現実のバルトからほど遠い、最も隔たったイメージだよね、それに、まるでバルトに対するイヤガラセをやってるとしか思えないほど彼の嫌っている言葉も平気で出てくる!これは何かの陰謀ですか(爆)。

1/のっけから「抒情芸術」?!…なにそれ?…これって、"art lyrique"つまりオペラ芸術のことじゃなくって?…じゃなかったら、「抒情芸術」って具体的に何ですか?…

2/「西洋演劇の基盤は現実の幻影の点にあるのではなく、全体性の幻影の点にある」
 ここはもうちょっと説明が必要ですなあ。「現実の幻影」、「全体性の幻影」とは具体的にどういうこと?…。なんでまた、こんな人を煙に巻くようなもったいぶった言い方をせにゃならんの?…。原語ではごく当たり前の言葉でしょうがあ!(笑)。"illusion de la realite"とは。現実らしさ、本物らしさという幻影、"illusion de la totalite"とは、それが全体的、包括的なものであるという幻影を産み出しているってことでしょ?…違うの?…。ただ、それにしても、ちょっと意味不明だねえ…。以下の展開が必ずしも納得いく説明になってないんで、説明して?…CineKen2みたいな凡才には理解不能だから!


3/「表現の根源が唯一不可分であり、それは数々の表現の同時的総合とされる」
 この箇所はバルト自身の考えとしても、ちょっと古くない?…。要するに、哲学的には(ヘーゲル的弁証法に対する)ニーチェ的「差異」、演劇的にはブレヒト流の「異化」を持ち出して旧来の「同化」理念を批判していた時代のバルトの考えなんで、いくらなんでも、バルトはもうちょっと先まで行っていたはづでしょ。その結果「内面が外面を支配すると考えられ」、「内面を外在化する道として考えられている」なんて、彼氏、言わなくなっちゃうでしょ。「表現」すなわち "ex-pression/"Aus-druck"…つまり、内にあるものを外化するのが「表現」であるという考えの批判は、もうとっくのとうに終わっちゃったものと考えられていたでしょう。つまり時代錯誤の議論なんじゃないの?…。
 同様に
「二律背反(生物/無生物、内部/外部)の枠を越えるものではない」云々も同じ。

4/「「魂」と「肉体」の換喩法的な感染を受けた西洋の俳優」と「自分の役との距離を置かずに自分の肉体と感情をその役の中につめこむ態度を取り」

 を具体的に説明してご覧。ヒントを出しとこうね。本文内にもちょっと出てくるけど、「距離を置」くという言い方、「距離」="distance"だけれどね。日本語で「異化」と呼ばれている概念は仏語の演劇用語では "distannciation"となるのを知ってる?…つまり「距離化」だよね。つまり、元はといえば、弁証法で言うところの「疎外」、「矛盾」と同義の言葉なんだよね。日本語の「異化」は非常にいい言葉で、仏語で「疎外 ("alienation")」、「矛盾 ("contradiction)」というと否定的ニュアンスが強くなっちゃう。だからわざわざ "distannciation"なんだけれど、これは必ずしも適切な言葉ではないし、そんなことが解り切ってるバルト自身だってだんだん使わなくなっちゃう。何故、それをわざわざ「距離」という言葉を戻しちゃってるの?…理由を説明しなさい。その説明ができたら、「ヒステリー」の意は自ずと理解できるでしょう。

5/「俳優はその肉体観を使って虚偽を作る」を解説してご覧。
 こういう考えはちょっと古い…と思うけどねえ。つまり、現在の演劇論では、この考えはもっともっと解体されちゃってる。

 つまりね。上の評論がどうして「アカデミックで官僚的に見える」かというと、ここでのバルトが、西欧哲学の主流を形成するヘーゲル流の弁証法、つまりバルトの言葉、否、Orfeoの言葉を使うと「二律背反」、「対照法」、「有機体の統一」云々だよね…に、ニーチェ流の「差異」(=「矛盾」に対する)を持ち込んできて、これを解体しようとしているんだけれど、自ら「二律背反」的思考に則っちゃうことによって、それがなし崩しにされちゃってるのよ。まあ、バルトの魅力ってのが、そういった自己撞着にあるのは部分的に確かだとしても、こうも形式的なものでは決してないわけよ!。そこのところ、この評論の筆者はどう考えているんかねえ?…もし、言葉に酔っ払ってなにも解ってなくて書いてるんじゃないのなら、お答えください!

6/「三つのエクリチュールから成っている」
 何時も問題になるのが "ecriture"なんだけどねえ…。こういう言語学用語をこいう対象に無差別に使ってしまう根拠ってものがいったいあるんですか?…。それとも言葉に酔ってるだけ?…。まあ、これを記号論用語だと言ってしまえば、それまでなんだけれど、ただ、そうすると今度は「操り人形、人形遣い、”声師”」は「記号」であるってことになるけど、そこいら辺り、ちゃんと納得できる説明してくれないか?…同様に「表現の諸コード」と言うんだけれど。それはただ単に「コード」のみってことはないでしょうが!。またそれらを「コード」という時、これらの〜敢えてこの言葉を使うけど〜「表現」はきわめて矮小化されたものにされてしまうんだ。つまり、演劇というものが「コード」だけでできているものでは決してない…、より正確には「コード」と見ない方が面白いし豊かな議論を惹き出せると考えはじめたわけよ。晩年のバルトはそのことに気が付いていて、そう安易にこういう言葉を使わなかったよね。…だから晩年の評論の一つ "Grain de la voix"〜邦訳「声の種子」?…フィッシャー=ディスカウ・ファン必読!やっつけられてるぜえ…〜なんだ。

7/「「内在性」が占めていた場が「労働」に取って代わられる」
 おりゃあ!(爆)。「労働」とおいでなすったねえ!…。うん、"travail"の直訳なんだろうけど、これはちょっとお粗末じゃありませんか?…。哲学で言う"travail"という言葉の意味が変わってきたのはフロイトの精神分析理論以降のことなんだ。つまり、無意識が行う意志を伴わない「作業」、「仕事」だって "travail"なんだよね。それじゃなかったら、「内在性」と「労働」が対立項(またまた!…だよ)になるわけないじゃん!

8/「「基本的二律背反」という理念は掻き乱され、消滅する」
 本当か?…本当なら具体例を示してみ。

9/「「肉体」の感覚的抽象化なのである」
 …(爆)あんなに具体的、具体的と主張していたバルトがいったい何を言い出すんだよ!何故「感覚的」、何故「抽象化」?…。文楽の人形なんて、最も具体的なものでしょうが!…と反論されて、これに答えたら 5/で指摘した自己撞着に陥らないですか?…。否、自己撞着に陥らずにこの質問に答えなさい。

結論/ そう、もちろん、ロラン・バルトはこう言いつつ、自らの夢を語っているんだよ。参考文献として引用されている『記号の帝国』はバルトが日本旅行の折に垣間みた自らの白日夢であり、だからこそ、あれがきわめて優れた評論だったのと同様、ここでバルトは演劇に関する自らの夢を語っているんだ。バルト自身、ここで展開されているようなことが文楽と西欧演劇にそっくりそのまま当てはまるなんて夢にも考えていないわけよ。そこをまったく理解せず、似非アカデミスムでカッコだけの言辞を弄するとどうなるか?…。
 批評というのは、そういうあり方だってあるわけ。クローデルだってそうだよ、Orfeoさん!彼の能に関する考察は。彼の演劇に関する彼自身の「夢」なんで、あれを日本芸能論と読んだらえらい話になる(笑)。そういうのは昔からあった批評のあり方なんで、ワーグナーとフランスの象徴詩人たちとの間の関係が、ちょうどそうだよね。マラルメとワーグナーとの関係を畏友ヒース・リース氏がしっかりやってるんで、ご覧あれ!

http://members2.jcom.home.ne.jp/kinoken2/intv/intv_contents/intv_heath.html

 要するに、自分の詩の理想的なあり方、詩論をワーグナーを借りてやっちゃうんだよね。だから、あすこでのワーグナーとは現実のワーグナーとはなんの関係もない。だから「…フランス詩人の夢想」はワーグナー論では決してなく、マラルメ自身の詩論以外のなにものでもないんだよね。だいたいマラルメなんて、ワーグナーのオペラを見たこともない!…。

 …とそういう話まで出ちゃったからには、一つ宿題だ。このコメントで、CineKen2が、次回にとっておこうと思って、故意に議論を避けてる…というかスキを作っている点が一つあるんだけれど、そこを指摘して、反論してご覧。もうちょっとオペラともサッカーとの関連する議論に発展するかもよ?…。

 おまけに、バルトってのは日本語なんか片言だってできんのだぜ(笑)。オレはバルトにナンパされかかったことがあるからよく知ってる。そうそう、あれはガルニエの楽屋だった。ミシェル・プラッソンに会いに行ったら…とすると《ファウスト》の時だな…、バルトがいて、ニコーっと笑って、これからどっか飲みに行きませんか?…だって!オレ、オマエが飲めないことくらい知ってるぜえ!…こちとら、慌ててヴァレリー・マスターソンおばさんの楽屋に駆け込んで難を逃れた。日本人学生で、あいつにナンパされた奴って多いらしいよ(爆)。
CineKen2=きのけん 

投稿: CineKen2=きのけん | 2007/04/12 15:23


きのけんさんにはバルトは無理!諦めたほうがいいよ!(爆)

というか、きのけんさんともあろう人が、この文章が大いなるパロディであることに気付かないとはまた哀しいなあ。なんのパロディかまで聞くような真似はよしてよね。バルトじゃないからね、勿論!

それが分かれば、なんでこんな文章になったかは自ずと了解出来るはず。バルトが言ってることは、いたって単純なことです。

あとはこれが68年と70年のバルトの論考を要約しただけのものなので、その後バルトがどういう風に思考を変革し、発展させていったかなんてことは、まるで範疇にも興味の対象にも入っていません。ただそれだけ。だいたい、文楽についてまた語ってる、彼?

「抒情芸術」に関しては、バルトがそう言っちゃったからそれでいいの。こんなもん、言ったもん勝ち!(笑)彼が西洋演劇の同語反復を避けて「抒情芸術」と言ってしまったんだから、これは劇芸術のこと。私が「サッカーはパフォーミング・アーツだ!」と言ってしまえば、やはりそうなるの。それが宿命です。

そんでもって、あなたは私のヴィテーズの「繻子の靴」論http://www2u.biglobe.ne.jp/~orfeo/vitez.htm
をちゃんと読んでいないでしょ?読んでいてそんなことが書けるとしたら、ちょっとヤバイよ!

こちらは夕方温泉に入って気持ちいい状態なので、宿題なんて無粋な遊びにお付き合いする気は毛頭ありません。悪しからず。

投稿: Orfeo | 2007/04/12 19:00

 …と、やっぱり温泉へと逃げましたか!…。

 はっきり言っときますが、「きのけんさん」が関心を持っているのはあくまで Orfeoさんの議論に対してであり、「私は」、「私を」…を連発される Orfeoさんのご自身の自意識、自己顕示にはまったく関心がない…というスタンスです。

>あなたは私のヴィテーズの「繻子の靴」論をちゃんと読んでいないでしょ?

 ここでもまた「私」様のご登場なんですが、こういうことを言われても「バルトは無理!」な知能程度の「きのけんさん」には理解不能です。具体的に何処がどう…と指摘していただかないと…ねえ!(苦笑)。つまり、もう一つ宿題!…「私のヴィテーズの”繻子の靴”論」で展開されている議論と上で指摘した問題点が何処でどう関連するのか具体的に指摘してください。全然関係ないよう見えますけど、ただ単に「読んでいないでしょ?」というご挨拶では議論は始まりません。
 それじゃあ、売り言葉に買い言葉というわけで言いますが、実は…あれを読むのは、人ごとながら相当テレ臭いんですよね。それは、1970年代中盤くらいから死ぬまで「きのけんさん」がヴィテーズの芝居を、芝居から離れていたほんの数年間を除き細大漏らさず追っ掛けてきたから…という意味合いでは決してなく、よくこんな大言壮語ができるもんだ…この世の中には、これほど羞恥心というものを持たない筆者というものがいるもんなんだ!…というテレ臭さなんですわ。そう、ミシェル・フーコーがジャック・デリダをクサして「私としては到底あれほど壮大な身振りでそんなことを言うことはできません」というあの羞恥心を感じてしまうのだよ。曰く「ポール・クローデルーそれは余りに強烈な個性、揺るぎなき神への信仰、そして全身を突き抜けるような肉感的な表現力とを兼ね備えた、まさしく巨人とも言うべき存在である」、曰く「演劇の創造力、舞台のみならずその観客席までをも含めた劇場全体がそのドラマを増幅させていくような、だから、観客の想像力の参与によってその劇が無限に拡大していくような、そういう射程をその演出家が身に付けているかどうかという点にあるのではないだろうか。舞台から客席へ、そして客席から舞台へというこの絶ゆまぬ相互作用の磁場が、そこに演劇の〈魔術〉を現出させる」。…といったような箇所ではこっちが赤面しちゃうんだよ。判る?…判んねえだろうな…。おまけに、そのご当人が「淡々とした口調で、実に抑制の聞いた声色が流れて来た。これも言うなればディスクール自身の力で劇を生み出そうとするヴィテーズならではの成せる技であろう」だの「それは如何に巨大なスペクタクルを舞台上に出現させ、人の目を驚かせ得るかということにあるのでは決してない。それは単なる見世物屋だ」…なんて、ご自分の大言壮語を棚に上げて、いけしゃあしゃあとのたまわっているのを見ると、う〜ん、やっぱし、読んでてちょっと辛いなあ…!(笑)。うん、この「真に一流の演出家」についての箇所を翻訳してヴィテーズ自身に見せてあげたら、御大どんな顔をするか、だいたいは想像つくよ(笑)。
 もう一つ、かなり恥ずかしいのが、やれバルトが「文楽」について語った、やれヴィテーズの舞台が能舞台に似てた…やれクローデルが能に関心を持った、やれアルトーがバリ島の演劇を持ち上げた…なんてことになると、それこそオニの首でも獲ったようにはしゃぎ廻っちゃう連中の例のパターンがここにも顔を出していることですね。ああいうのを、日本人知識人たちの抜き刺し難い西洋コンプレックスの裏返しにされた現れだと見るのは「きのけんさん」独りではないみたいだよ。

 最後に、
>「抒情芸術」に関しては、バルトがそう言っちゃったからそれでいいの

 残念ながらバルトの邦訳者たちが "art lyrique"を「抒情芸術」だなどと頓珍漢な訳をしているかどうかは知りません。しかしながら、バルトがここで文楽の対立項としてオペラを想定しているのは確かだと思われます。このパターンはバルトをよく知っている人にはお馴染みのもので、彼はかつてワーグナーの総合芸術論に「古代悲劇」すなわちギリシア悲劇ですね…を対比させてオペラというジャンル、ワーグナー流の総合芸術論の無効性、すなわち「総合」とは名ばかりで、結局は音楽という単一の記号体系が他を圧して主導的になってしまう…という、かつて提起した議論を下敷きにしていることが明白ですね。もう一つ、ガリマール版《スペクタクルの歴史》所収のギリシア悲劇論も、この議論を下敷きにしています。だから、上の議論でバルトが想定しているのは西欧演劇一般ではなく、なによりもまずオペラなんですよ。
 「抒情芸術」だなどという頓珍漢な訳を「バルトがそう言っちゃったからそれでいいの」などとたわけたことを言っちゃって、まるでなしくずしにしちゃったのが、まさにこの点。オペラをメイン・テーマとするブログをやってる御仁として、こういう点をあっさり無視してるとは、まあまあ勿体ないこと!…。
 「パロディー」でもなんでも、大変結構なんですが、「きのけんさん」側ではてっきり、バルトという思想家を熟知しておられるらしいOrfeoさんなら当然のことながら、まさにその点を指摘、反論してきて、そこに新たな議論の場が発展するものとおおいに期待するところがあったんですが…そうそう、上の古代悲劇論にはギリシャ悲劇=プロレス論という、ちょいと面白い議論を展開してスポーツ部門と接ぎ木されているし…こちらの買い被り…でした。
CineKen2=きのけん

投稿: CineKen2=きのけん | 2007/04/13 05:26


じゃあ、ここの文章を「抒情芸術=オペラ」と置き換えて、読んで御覧なさい!まったく意味を成さないから。論述というのはそういう単語ごとの揚げ足取りではなくて、コンテクストで読まなきゃ駄目、ってことね。

そういう理解ができないから、私の「繻子の靴」論も読み間違っているんですよ。私の言わんとしていることの、まったく正反対の理解のされ方をされているようで。クローデルやヴィテーズが能を意識していることに力点を置いているわけでは全然ないの!そんな当たり前のこと、今更言ったってしょうがないでしょ。そうじゃなくて、そこに「差異」があるってことを問題とし、強調しているんです。そういう意味で、これはロラン・バルトじゃなくて、ジル・ドゥルーズ系の話ね。バルトが無理なら、ドゥルーズも無理、かもね?

投稿: Orfeo | 2007/04/13 06:03


それから、温泉に行くことは昨日の朝から決まっていたこと。つまり、そちらの最初のコメントが入ってきたときには、もうとっくに温泉にいたってことです。それを「逃げた」などと書かれるのは、誠にもって無礼。謝罪を要求しますよ、謝罪を!

投稿: Orfeo | 2007/04/13 06:19

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