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2007/04/28

『オテロ』(東京のオペラの森)

Ashitanojoe DVDライブラリーより。

ボクシングのリング上で繰り広げられる『オテロ』。ブレヒトの教えを言葉どおり忠実に実行したってか?それにしても、これはまた随分貧困な読み替えですねえ。この後、共同制作先のウィーンに持っていってやった公演ではミーリッツがかなり演出を手直ししてしまい、完全にトーンダウンしたそうな。そんな意気地のないことでいいのかね?やると決めたら最後まで闘いなさい(爆)。

オテロ:クリフトン・フォービス
デズデモナ:クラッシミラ・ストヤノヴァ
ヤーゴ:ラード・アタネッリ
エミリア:牧野真由美
カッシオ:マリアン・タラバ
ロデリーゴ:岡本泰寛
ロドヴィーコ:ダン・ポール・デゥミトレスク
モンターノ:山下浩司
伝令:成田眞

合  唱:東京のオペラの森合唱団、杉並児童合唱団
合唱指揮:宮松重紀
管弦楽:東京のオペラの森管弦楽団
指  揮:フィリップ・オーギャン
装置・衣裳:クリスチャン・フローレン
照  明:ルドルフ・フィッシャー
演  出:クリスティーネ・ミーリッツ

[  収録:2006年4月2日、東京文化会館大ホール  ]

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コメント

>ボクシングのリング上で繰り広げられる『オテロ』
そういうことなのですか・・・テレビで偶然終わりのほうだけ見ました。そういえば、オテロがボクサーって雰囲気ではありました。顔の黒塗りがとても奇妙な映り方をして醜悪(失礼m(_ _)m....にしか見えませんでした。この間またやってたので、一応録画したのですが、どうも見る気になりません^^;

投稿: edc | 2007/04/28 08:44


edcさん、どうもです。
見ないほうがいいかも・・・(笑)。

投稿: Orfeo | 2007/04/28 13:49

立て、立つんだオテロー!(笑)

この演出、全然知らずに録画したものを見出したら、開始10分で空いた口がふさがらなくなってしまいました(^_^;)後は強制的にハイライト鑑賞…まさかコレをウィーンで上演したとは、最近まで知りませんでした。ある意味すごいですよね。ストヤノヴァとアタネッリは最近注目の歌手なのですが、もうちょっと私好みの演出で見たいものです。

投稿: Sardanapalus | 2007/04/28 23:19


>Sardanapalusさん

き、きいたぜ、ヤーゴ・・・(爆)

高い金払って、こんな演出を見たいとは思えませんね。観客を置き去りにするのもいいかげんにしてほしい。ブレヒトの発言は比喩的なものであって、それを真に受けてどうする?という気がしてなりません。

歌手がどうのこうの言う気がおこらない、まったく不幸な公演だと思います。

投稿: Orfeo | 2007/04/29 05:56

 この種の制作が提起する問題というのが二つあると思います。

 実は、この手のものは、多分、最もヴィデオになり難い代物で、実際の舞台に接する以外ないものだと思うんですが、こういうのをヴィデオやテレビで見ちゃう時に起こる典型的な反応が、まさに Orfeoさんの「これはまた随分貧困な読み替えですねえ」という反応だと思います。きわめて不思議なことに、「演出」という仕事を「読み替え」だと思ってる人が結構多いんですよね、特にオペラ関係者には…。もし「読み替え」だの「レクチュール」だけで演出ができるなら、この世の文学研究者とか文芸評論家たちは全員演出家になってます(爆)。つまり、「読み替え」だの「解釈」だのを前面に立てる発想というのは文学的発想なんで、ちっとも演劇的な発想ではない。「ブレヒトの教えを言葉どおり忠実に実行した」?…とおっしゃいますが、また、この演出家の発想もそんなところにあったのかも知れないのですが…、ブレヒトの考えは、そんなチャチなものじゃないです。ブレヒトの考えは、現代演劇はスポーツの持つ演劇性を取り戻すべきだ…というところにあって、言ってみるなら「演出=読み替え」論の対極にあるものなんですよ。演劇ってのは原作の解釈だとか、読み替えなどというチャチなもんじゃないでしょう!…という考えなんだよね。
 オペラ専門の…というかオペラしかできない「演出家」とさえ呼べるかどうか?…なんて連中はいざ知らず、少なくとも「演出家」の名に値するような連中にとって、解釈だとか、読み替えなどというものは演出作業のごく一部に過ぎない。演劇部門では、こういった解釈だとか、読み替えなどを担当する仕事。つまり具体的な上演に向け上演作品の文学的研究をする仕事を「ドラマトゥルギー」と呼んでますが、この作業を拒否する演出家だって沢山います。つまり、そういうものは結果として出てくればいいんで、予めそんな偏見をもってかかるのは百害あって一利なしという考えですね。その最も有名な一例が、Orfeoさんお得意のアントワーヌ・ヴィテーズだったんです。彼は、テーブル・ワークなんて全然やらなくて、私はこの作品をこうこう解釈する…なんてことは予め一切言わなくて、のっけから役者たちに、さあ演ってみろ!とリハーサルを始めるのが常でした。別項(サイトの方)に入ってる Orfeoさんの《繻子の靴》評(1)をお読みになれば、そのことを納得されることと思いますが、彼はクローデルの原作に対する解釈だとか、読み替えなどは一切やってないんですよ。それは役者たちとの仕事の結果として出てきたもの…以外のなにものでもない。

(1) : http://www2u.biglobe.ne.jp/~orfeo/vitez.htm

 かつてパトリス・シェローがさる演劇誌のインタビューで、演出にとって最も難しい作業は何か?…という問いに答えて曰く。ーーそれは時間性の組織です。続けて曰く。オペラの演出というのはつまらない。だから自分はオペラの専門家には絶対にならないんですが、何故ならオペラの場合、その時間性というものは、第一に作品自体から、第二に指揮者によって予め決められているわけで、演出家が介入する余地がほとんど残されていない。私のような演出家にとって、こんなにつまらないものはないんです。…という話をしてました。同じく、ヴィテーズがモーツァルトの《フィガロの結婚》再演を拒んで曰く。私にとってモーツァルトの《フィガロの結婚》はボーマルシェの《フィガロの結婚》のこれ以上は考え難いような最上の演出です。私が改めて演出し直す意義をまったく認めません。

 第二の点はヴィデオに内在する問題。いつだったか、どっかのブログで、フェリーニがオペラ演出をやらなかったのは不思議だ…といった珍妙な意見を吐いていた御仁があって、おやおや!…と思ったもんなんですが、多分この人はオペラの実演を見たこともなければ、フェリーニの映画をまっとうな映画館で見たこともない人だと思います。つまり、両方共ヴィデオでしか見たことがない…となると、両方がまったく同じ次元に見えてしまうというのも全然不思議でない。ヴィデオにはそういう怖さというものがありまして、それこそフェリーニみたいに、1970年代初め既に、今日の映画は全部テレビになってしまった!と悲憤慷慨していたようなシネアストのフィルムですら、ヴィデオにされて、彼の言う「テレビ」になってしまうという皮肉な事態に陥ってしまう。

 実際、これだけヴィデオでオペラを楽しむということが一般化してしまうと、作る側でも、それをただ単なる実演の代替物という以上のものにしていく努力があってしかるべきだと思うんですが、なかなかそういう方向に発展しないんだよね。例えば、ここにも何本か記事が出てますが、かつてジャン=ピエール・ポネルが撮ったオペラ映画なんかには、ジョゼフ・ロージーの《ドン・ジョヴァンニ》とかアンジェイ・ズラフスキの《ボリス》といった純然たる映画監督の作ったフィルムとはまた違った発想で、よりオペラというジャンルに密着した試みがあり、あれなんかも参考になりそうですね。
きのけん

投稿: きのけん | 2007/04/29 06:04


>きのけんさん

実演はおろか、ヴィデオですらご覧になっていないきのけんさんに正論で攻められると、ツライ(笑)。

ただ、ウィーンでかなり手直ししたという事実から言っても、日本の観客は相当ナメられてたんじゃないの?という気がしてなりません。それが哀しい・・・。

ただ、ひとつだけ言えるのは、私が思うに、手直しして曖昧にするぐらいなら、この東京での公演の方が、よほど主張がはっきりしていて、潔いんだけどね。それを受け入れるかどうかは別として(笑)。

投稿: Orfeo | 2007/04/29 08:39

 …というような映像と実演の違いに関心を持つようになったのは、1980年代初めに太陽劇団から独立した片割れの野鼠座(テアトル・デュ・カンパニョル)という劇団が作った《舞踏会》という芝居を見て、その後、この舞台をイタリアのエットレ・スコラが映画化したの(《ル・バル》)を見た時からなんです。
 《舞踏会》というのは僕が1980年代に見た芝居のうち最も見事なものの一つだったんですが、その野鼠座が当時本拠を定めていたパリ郊外のアントニー市、シャトネ=マラブレ市の住民や古老たちに取材して、昔の大衆舞踏会の模様を寸劇にして、戦前から、現代に至り、その民衆舞踏会の伝統がだんだんディスコなんかに変質してっちゃう過程として一つの芝居にしたものなんですが、後で考えてみると、演出家ジャン=クロード・パンシュナはピナ・バウシュの《コンタクトホフ》を見てて、あのフランス版を作ってみたんじゃないかと思われるフシがあるんだけれど、エットレ・スコラの映画版を見て、ちょっと驚いちゃったんだよね。そう目立った作為や解釈なんか加えていないのに、そこにある種の物語やメッセージが入っちゃうんだ。う〜ん、これは、解釈とかの問題なのではなく、映画=映像芸術と演劇との間にある、もう本質的な表現形態の違いなんじゃないか?…と思ったというわけ。…というか、より正確には、どうしても見る側の知覚が、そこに一種の物語を読み取ってしまう方向に働いちゃうんだよね。野鼠座の舞台は、一応時間軸に沿っている…年代順に並べているとはいうものの多数の寸劇をただ単に連ねていて、ただそれだけで演劇的な充実感を得られるようになってる…ところが、それが映画になっちゃうと、どうしても、民衆舞踏会の歴史的変遷とか、最後に、その伝統がロックやディスコから一掃されててしまったのは残念だ風のメッセージを、もうどうしようもなく読み取っちゃうというわけよ。野鼠座の舞台で役者たちのパーフォーマンスそれ自体が中心になっていたのが、どうしてもそのパーフォーマンス自体を一種のメッセージや物語に従属しているものとして「読み直」しちゃうというわけだ、…そう、必ずしもスコラ監督側の意図としてでなく、見る側の志向として…。そして、その過程で選択排除されてしまうものの方が、解釈に沿う形で見えてくるものよりも比較を絶して豊かなわけ。ああ、見えなくなっちゃう部分、見ようとしなくなっちゃう部分が随分大きいんだなと、その時、こりゃ注意せんとあかんな…と思ったというワケだ。
きのけん

投稿: きのけん | 2007/04/30 06:44


・・・う~ん、映像と実演という問題は、看過できない重要な問題なんですが、それを語るにふさわしい場所とは、到底ここは思えないんですが・・・。まあ、乗り出した船だ。しょうがない(笑)。

要は、映像作品には物語性=メッセージ性がついてまわる、ということですかね。そういう文脈として理解しました。だから、映像作品は舞台とはまったく別個の存在として考えなきゃあかん、と。これを理解できていないと、
「フェリーニにオペラ演出をやってほしかった」
なんていうトンデモ発言が飛び出すんだよ、と。

おっしゃる趣旨は理解できるんですが、メディア・ミックスが盛んに行われている現状を鑑みると、これはなかなか線引きが難しい部分でもありますね。映像を利用するオペラ演出というのも今では珍しくもなんともないわけだから。これを「進化」と見るか、「退化」と見るか、それもまた難しいところです。

投稿: Orfeo | 2007/04/30 08:54

この《オテロ》は、私も録画をセットして、同時に見始めましたが、あまりのひどさに見るのをやめて、録画も解除しました。
私の場合は、演出云々の前に、オテロとヤーゴの歌手が私の基準外でした。ヤーゴは見た目は普通ですが、いかにもの演技がはなにつきました。

私の経験からいえば、こういう舞台を録画してDVDなりTVで放送する方が、実演で見るより、ダメな部分が強調されるんですよね。気楽に映像化するのは、劇場側の記録、資料としての側面が大きくなっているということかもしれませんね。ちょっとでも売れれば、収入の足しになるでしょうし。

生舞台で見たものを、TV放送で見る機会も増えましたが、それはそれで、新たな発見があったりして面白いですね。映像の編集者と趣味があわないとイライラしますけど。なんで、そこばかり写すんだ...とか....(笑

投稿: keyaki | 2007/04/30 13:48


・・・この《オテロ》の映像、市販化されるのかな?(笑)

投稿: Orfeo | 2007/04/30 15:15

寝正月ならぬだらだら連休なので、つれづれなるままに最新録画ということで、再生しちゃいました。はあ〜〜映像化、無意味どころか酷いわ。劇場で見てもそうだったのかどうかわかりせんが、照明、最悪。許容できる映像でも照明が酷いと思う部分があったりするもので、映像にしたときの照明って難しいのではないかと思います。それにしても、ほとんど全編これ、子供のころ懐中電灯でやったお化け遊びみたい。

>歌手が私の基準外
解説の堀内氏が盛んに従来のイタリアオペラだと思って見るとだめかも・・みたいな予防線を張ってました。歌い方も変えてるっていいたいのかどうかしりませんが、全員、奇妙な感じの気色悪いお歌でした。ときどきボクサーなのを思い出すのか、蹴りを入れたりしながらなのが、ご愛嬌というか・・・ 外見のこと言って申し訳ないけど、デズデモーナもくたびれたおばさんにしか見えないし・・・ 照明と衣装のせいでしょうけど^^;; ヤーゴもあの明るいどんぐりまなこが強烈なだけで、ヤーゴって感じを持てませんでした。

>市販化
いくらなんでもないんじゃない?

投稿: edc | 2007/05/03 09:38


・・・ですよね?(爆)

投稿: Orfeo | 2007/05/03 13:58

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