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2006/10/14

『コジ・ファン・トゥッテ』(エクサン・プロヴァンス音楽祭)

Dvdcosifantutteaix DVDライブラリーより。

1966年から3年間、20歳代前半にしてパリ近郊のサルトルーヴィル市立劇場の監督を務め、そこを破産させてしまった若き日のパトリス・シェロー。彼はそれを契機に、追放される形でフランスを離れ、69年にイタリアのスポレート二世界演劇祭、『アルジェのイタリア女』でオペラを初演出。それからの3年間、彼はイタリアに留まり、ミラノのピッコロ・テアトロで研修期間を過すことになる。ちょうどストレーレルがピッコロ・テアトロを離れていた時期(68年脱退、72年復帰)に当たるが、その間もピッコロ・テアトロではストレーレル演出作品の上演は継続されている。シェローは72年に帰国し、国立民衆劇場(TNP)の演出陣に最年少で加わり、74年パリ・オペラ座での『ホフマン物語』を成功させ、そして76~80年のバイロイト音楽祭での『ニーベルングの指環』で一躍世界にその名を知らしめることになる。その後の活躍はご承知のとおり。一方、97年に没したストレーレルが新築されたピッコロ・テアトロ新劇場(現ストレーレル劇場)のために残した遺作、それが『コジ・ファン・トゥッテ』(98年初演)。ナポリのサンカルロ劇場という舞台設定の下、ストレーレルらしい二重構造の劇中劇という形を取ったこのプロダクションは、2000年に日本にも招聘され、日生劇場で上演された。そして、1994年のザルツブルク音楽祭での『ドン・ジョヴァンニ』(指揮=ダニエル・バレンボイム)以来、再演を除いて、しばらくオペラから離れていたシェローが久々にこの世界に戻ってきて取り組んだ作品、それがやはり『コジ・ファン・トゥッテ』。このエクサン・プロヴァンス音楽祭のプロダクションは、そんなシェローからストレーレルに捧げられたオマージュである。

舞台はイタリアの古びた劇場。アルコーブ状にくぼみが入った正面壁上方には大きく「禁煙」という赤い文字。舞台袖までがすべて露わになった裸舞台が姿を見せている。脇には脚立やロープ、運搬道具とか掃除道具までが雑然と置かれ、上手の壁には電話、おまけに消火器まで用意してある。舞台前面の床は前にせり出していて、オーケストラ・ピットを半分覆う形で塞いでいる。そんな中、ハーディングの快速な序曲の終盤、大司教館劇場の客席通路に、というより、この"イタリアの劇場"の客席通路にライモンディたち男性3人が登場。ひと悶着が起こり、話は始まる。そして、通路を含めた"劇場"の中で、文字通りの"芝居"が展開される、というわけ。空っぽの劇場の中での出来事というのはシェローが得意とする手法でもあるが、それは同時に、ストレーレル版『コジ』の構造~というか、ストレーレルが好んでよく使った構造~の引用でもある。そればかりではない。ここでシェローは、老哲学者ドン・アルフォンソ役のライモンディに、演出家ストレーレルのイメージまで重ね合わせているようだ。風貌もどことなく似ている(笑)。この公演当時、ライモンディが歌っているんじゃなくて、語っているという批判が出たそうだが、この舞台を見るとその謎も解けてくる。これは、ワザとだな、と。演出家が滑らかに朗々と歌ってしまっては変というもの。かって、ストレーレル自身が舞台上で披露した歌はそりゃひどかった、というきのけんさんの証言もありました(余計な話w)。そこでライモンディは努めて抑制気味に歌っているに違いない。演出家ストレーレル/ライモンディの指示の下、虚飾を排した味気ない舞台の上で、脇に控える役者とも裏方とも付かぬ人間たちが素早く小道具等の出し入れを手伝い、ドラマがテンポよく進行していく。この辺の感触はまさに、ゴルドーニの芝居等で見せるピッコロ・テアトロのそれと変わらない。

ガランチャやウォールらの若手注目株、中堅どころのボニー、そしてライモンディといった大ヴェテラン歌手を集結させたこの舞台、シェローが目指したのは『コジ・ファン・トゥッテ』の軽さに重みを加えること。滑稽でありながら、深刻で、ずしりと重いドラマ。時折、突如侵入してくる儀式風のイメージャリーがそれを助長する。若者たちはこの演技/試練を経て、愛の幻想から解放され、大人へと生まれ変わる。フィナーレでは六人が円を組んで死と再生の儀式を取り行うが、その趣きはなんとも悲痛だ。そう、この舞台はストレーレルに対する、あるいはイタリアに対する、シェローの郷愁が色濃く反映されているのは勿論だけれど、のみならず、彼自身の若年時代の~その苦い思い出も当然すべて含んだ~青春の日々の追憶、その愛惜の念が背後にきっちりと貫かれている。だからこそ、落ち着いた、あるいは老成した指揮者ではなく、ハーディングが指揮することに意味があった。そこには溌剌とした若者がどうしたって必要だったのだ。ハーディングの若々しい音楽の運びを得て、涙が出るほどに感動的な舞台がそこに生まれた。素晴らしい公演だと思う。

★★★★★

フィオルディリージ:エリン・ウォール
ドラベッラ:エリーナ・ガランチャ
グリエルモ:ステファン・ドゥグー
フェランド:ショーン・マセイ
デスピーナ:バーバラ・ボニー
ドン・アルフォンソ:ルッジェーロ・ライモンディ

合  唱:アーノルト・シェーンベルク合唱団
管弦楽:マーラー室内管弦楽団
指  揮:ダニエル・ハーディング
装  置:リシャール・ペドゥッツィ
衣  裳:キャロリーヌ・ドゥ・ヴィヴェーズ
照  明:ベルトラン・クーデル
ドラマトゥルク:クレマン・エルヴュー=レジェール
撮影監督:ステファヌ・メッジュ
演  出:パトリス・シェロー
共同制作:パリ国立歌劇場、ウィーン祝祭週間

[  収録:2005年7月7・17・21・23日、エクサン・プロヴァンス、大司教館劇場  ]

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コメント

出た、出た、シェローの《コジ》。
こんなに、ばっちりレポート書いて頂いて嬉しいです。
この演出って、やっぱり、演劇の専門家で、ストレーレルとかシェローに詳しい人達に解説していただくと、なるほど....です。

どうやら、Aixの時より、進化させているのか、前回のウィーンでの公演は、評判も上々だったようです。また10月末はガルニエ、11月はウィーンでシェロー一座頑張りますよ。客の入りもいいようですし。

関連記事をTBさせていただきました。
インタビューの方は、まだリンク切れしていないようですので、ご覧になっていなければどうぞ。私は言葉がダメですので、ちらっと写っているライモンディを眺めただけなんですけど。でもほんと楽しそうにやってますよね。シェローとは意気投合したようですから。年齢も近いですしね。

もう一つは、コメントにAix公演の新聞評とか、きのけんさんの「こりゃダメだ...」なんてTV観戦記もあります。(笑

投稿: keyaki | 2006/10/14 12:09


keyakiさん、大変長らくお待たせしました。
ちょっぴり頑張ってみました^_^;;

そういや、きのけんさんがTVで見て、憤慨してしまったんでしたね。今、思い出しました(笑)。あれは7月23日の実況中継だったそうだから、このDVDの映像収録の日と重なってはいますが、他の日も入っているので、まるっきし同じものではなかったということでしょうか。どのみち、きのけんさんはDVDやTVでオペラを見るより、劇場で実際にご覧になることのほうが断然多いでしょうから、制約の多いTV映像にイラついてしまったんですね。私もそうありたいです・・・(爆)。

2本のTB、ありがとうございました。
TB返しさせていただきました。

投稿: Orfeo | 2006/10/14 17:26

名解説ですね。興味深く読ませていただきました。間もなく始まるガルニエでの公演を見る予定なのでまた新たな楽しみが加わりました。指揮はハーディングではないですが。

投稿: dognorah | 2006/10/16 05:33


dognorahさん、どうもです。
おお、ガルニエでご覧になるんですか!
いいですねえ。
是非楽しんできて下さい。
レポート、楽しみにしています^_^;;

投稿: Orfeo | 2006/10/16 09:47

私信モード:
 コメントを途中まで書きかけたんだけど、ご存知の事情で…ちょっと落ち着きません。落ち着いてから再挑戦します(笑)。遂にあと1週間を切ったよ!やだねー(笑)。
 それから、もぐら叩き有難う!助かってます。
きのけん

投稿: きのけん | 2006/10/17 16:33


きのけんさん、お疲れ様です。
追い込みで大変でしょうが、頑張ってください。
もぐら叩き、すっかりゲーム感覚で楽しませていただいてます(爆)。

投稿: Orfeo | 2006/10/17 17:36

 頑張ってます(泣)…。
 昨日、粗大ゴミ回収日に山のような資料やプログラム類を大量処分したんですが(再泣)、近くのおばさんたち4人がそのゴミの中を漁ってるのよ。面白いから隠れて見ていたら、この建物には日本人指揮者が住んでいたらしい…なんて噂してやんの(笑)。そういや、僕は小澤征爾と間違われたこと数度、ケント・ナガノにされたこと2度。やんなっちゃうね(笑)。そのおばさんの一人は学校の先生らしくて、車まで出して戻ってきて、リュック一杯本やらプログラムを持っていったよ。次に回収業者みたいなのがやって来て、こっちはアナログ・ターンテーブルと真空管アンプを持っていった。
 慌てて引越なんかするもんじゃないっすねえ…。
きのけん

投稿: きのけん | 2006/10/18 13:54


・・・う~ん、そのおばさんたちが羨ましい。手伝いに行くんだった(後の祭りw)。

それにしても、小澤征爾、ケント・ナガノに似ているかどうかはともかく、きのけんさんは、そちらの人たちにしっかり日本人or日系人だと見られてるんですね。私はかってニース空港の若い女性係員にフランス人と間違えられました(?)。絶対どっきりカメラだと思った(爆)。

投稿: Orfeo | 2006/10/18 16:32

「シェローによる自身の南欧の青春のノスタルジックな埋葬」…眼からウロコです。
何より最終節の文章が、トゲと陰影を含んだfluiditéとでも言うようなストレーレル/シェローのスタイルを映し出してるようで素敵です。
上演の余韻を反芻するのには最高でした。
後はこれがシェローの演出家キャリアの埋葬にならないことを…(なんて一言余計ですね)。

投稿: 助六 | 2006/11/10 08:04


助六さん、どうもです。

「シェローによる自身の南欧の青春のノスタルジックな埋葬」とはまた見事な表現ですが、これって、本当に私の記事へのコメントなんでしょうか?(笑)

シェローは今後、演出の予定が(まだ企画段階でしょうが)結構あるようですね。リスネル絡みでいうと、スカラ座で《リング》をやるというプランもあるようで。実現すると凄いですね。

投稿: Orfeo | 2006/11/10 11:28

orfeoさん、ご無沙汰しています。遅れ馳せながら本記事へのTBをさせていただきました。
シェローやストレーレルの演出に関する背景知識があるとまた見方はいろいろ変わるのでしょうね。勉強になります。舞台が劇場であったというのも、自分の記事を書いた後に知りました(あえて修正はしませんでしたが)。私の場合は単純に「暗いのでは?」と感じてしまいました。
でも、家に居ながらにして、いろいろなコジを簡単に楽しめる時代になったことを素直に喜びたいと思います。

投稿: YASU47 | 2007/03/18 21:04


YASU47さん、どうも。TB&コメント、ありがとうございます。

たしかに「暗い」かも。シェローがここで描くのは、「喜劇調」ではなくて、典型的な「悲喜劇調」だと思います。そういう意味で、極めて現代的な舞台だと思います。こういう《コジ》もありかな、と。面白いですね^_^;;

投稿: Orfeo | 2007/03/19 02:32

 きわめて不思議なことに、18世紀というのは通常、所謂「啓蒙」の明るい世紀だと思われているんですよね。でも、18世紀というのはカントの「理性」の世紀であると同時に、サド侯爵の世紀でもあるわけですね。
 この点を、常に変わらず見せ続けてきた演出家が、実はパトリス・シェローなんです。僕が初めて彼の芝居を見たのがマリヴォー《いさかい》なんですが、これはまさに 18世紀の啓蒙哲学者が人間性とは善か悪か?…という議論を交わすところからスタートするんですが、その哲学者は二人の野生児男女を外界から隔たった森の中の城に幽閉して他の人間との交渉を絶つ形で育てる。彼らが接触する人間は黒人の召使い二人だけなんですが、彼ら二人が思春期に達したところで、初めてこの少年少女二人を出会わせる。彼らは自分たち以外の人間に接するのは初めて…というわけで、そこで人間性というものが善か悪か、自ずと実証されようという目論み。さあ、そこではいかなる事態が発生するのか?…という芝居なんですね。もちろん、それは人間性は善で、悪はすべて社会悪であるという考えを実証しようとする啓蒙哲学者の予想した通りにはいかない…。そこでは、楽天家の哲学者の予想をはるかに超えたサド・マゾの世界が現出してしまう…。
 シェローはナンテール・アマンディエ劇場総監督時代に1シーズンの全演目を18世紀に捧げたことがあり、彼自身、マリヴォー《偽の侍女》、モーツァルト《ルーチョ・シッラ》、ハイナー・ミュラー《四重奏》を演出してるんですが、これが全部漆黒に塗り込められた18世紀なんですねえ。
 通常他愛ない喜劇だと思われているゴルドーニやマリヴォーの世界が(もちろんそこにはモーツァルトの台本作者ダ・ポンテも含まれるわけですが…)、ほんの僅か視点を変えるだけで、とんでもない残酷劇に変貌する。まさにそこが18世紀演劇の醍醐味なんです。だから、ヨーロッパの優れた演出家たちは、誰しも、それこそドイツ人のペーター・シュタインだってグリューバーだって、自らの試金石としてマリヴォーかゴルドーニを一度は採り上げているわけ。
 …というわけで、YASU47さんが「暗いのでは?」とお感じになったことには、相当奥深い根拠があるということです。
きのけん

投稿: きのけん | 2007/03/20 22:30

きのけんさん、
いつもながら深い洞察とご見解をありがとうございます(私の理解度は低いですが(^^;))。「暗い」という表現も単純な印象を言葉にしただけで特に深い意味付けをした訳ではありません。ただ、この映像盤において、ハーディングの音楽に冴えを感じることなく、音楽が演出に従属してしまっているなと感じました。同じ、演劇的演出であっても(明るかろうが暗かろうが)、音楽との一体化が欲しかったというのも感想のひとつでした。例えば、昨年のザルツブルグのフィガロも「暗かった」のですが、音楽も負けずに重たいものでした。好きにはなれない演出でしたが、妙に説得性も感じたものです。

投稿: YASU47 | 2007/03/20 23:07


>きのけんさん
どうも。

>YASU47さん
・・・う~ん、ちょっと僕は異論があるなあ。まさに「暗い」舞台なのに、ハーディングの音楽には若々しさの発露が随所にあった。もちろん、全体は決して明るくはなく、その意味では「演出に従属してしまった」と捉えるのはまったくもって正しい印象のように思います。でも、それもこれも当たり前!シェローとハーディングのキャリア、年齢差を考えるならば、どちらが主導権を握ったかなんて、明々白々でしょう。

一方、ザルツの《フィガロ》の方は、なにせアーノンクールが強すぎる!私の(ネトラジで聴いた)感想は、昨年の夏、ここに出していますので、参照なさって下さい。
http://orfeo.cocolog-nifty.com/orfeoblog/2006/08/post_e479.html

投稿: Orfeo | 2007/03/20 23:28


>きのけんさん
マリヴォーといえば、90年代にパリ・オデオン座で見たストレーレル演出の《奴隷島》が忘れられません。人間の内面まで露にする、ついでに身体まで露にする、素晴らしい演出だったと思います。客が入っていましたねえ、あれも!!

投稿: Orfeo | 2007/03/21 06:26


>YASU47さん
すいません。YASU47さんがコメント入れて下さった記事でしたね。うっかりしてました。忘れて下さい(笑)。

投稿: Orfeo | 2007/03/21 09:02

YASU47さん;

>ハーディングの音楽に冴えを感じることなく、音楽が
>演出に従属してしまっているなと感じました。同じ、
>演劇的演出であっても(明るかろうが暗かろうが)、
>音楽との一体化が欲しかったというのも感想のひとつ
>でした。

 二つ問題点があります。

 第一に、このクラスの大口径の演出家を使った場合〜まあ、指揮者でも同様ですが〜必ず、どちらかが主導権を握って、他方が従属してしまうという形になるのが普通で、この次元での完璧な共同作業というのはきわめて難しいと思います。カラヤンとストレーレルはザルツブルクの《魔笛》で大喧嘩をしたし、サヴァリッシュとルカ・ロンコーニはスカラ座の《指輪》で大喧嘩して、舞台をフィレンツェの五月祭に移し、ズービン・メータがロンコーニに「追従」して全4作を全うした。パリの《後宮》で、ストレーレルは、あっさり、指揮のジェイムズ・コンロンを追い払ってしまったし(笑)、同じくパリの《フィガロの結婚》ではショルティと大喧嘩…、スカラの《ローエングリン》ではアバドと大喧嘩で、ストレーレルはその制作から自分の名前をあっさり削ってます。
 バイロイトの《指輪》でバレンボイムとクプファーが一種絶妙の均衡を得るまで4年かかっていたし(それも毎年、キャスト全員を集めた4箇月間にも及ぶリハーサルをやりながら…です)、ブーレーズとシェローもほぼ4年がかり。
 難しいもんです。

第二の点は、オペラ・ファンの固定観念で、こいつをどうにか始末しないと、現代の芝居屋あるいは舞踊家などとの共同作業は不可能だし、それを理解することもできません。すなわち…

>音楽との一体化

 現代の舞台芸術家たちの考えは、「一体化」とは正反対の方向に進むことが多く、つまり古典的な「同化」理念に対し、現代の舞台芸術家たちはブレヒト流の「異化」理念を信奉しているのが普通で、音楽と舞台とは、音楽的に言えば、ある種の対位法を形成する方向に進むのを好みます。
 僕が実際に接した中で、これをものの見事にやってみせたのがパリのバスチーユ・オペラで制作されたロバート・ウィルソン演出《魔笛》で、アルミン・ジョルダン指揮の音楽は、ウィルソンの舞台に追従しないことはおろか、まったく別のことをやってて、ひょっとして彼は舞台を見ず指揮していたんじゃないかと思われるくらい異質の演奏でした。そして再演に登場したフリーデマン・ライヤーは、こんどは、ちょっとえげつないくらいにウィルソン劇に密着した指揮。…どっちが面白かったか?…それは、もう文句なしに、両者がすれ違いになっていたジョルダン指揮版だったんです。こういった形で舞台と音楽とが、まったく別のことをやってる…というかパラレルな関係にある、対位法を演じているような行き方こそ、まさしくウィルソン自身が求めるところとも合致していたというわけ。同じことがバイロイトでのハイナー・ミュラー演出版《トリスタン》と指揮のバレンボイムとの間の関係にもありました。初演時、おっかなびっくりだったバレンボイムが、3年次あたりから、思い切り自分を主張した時に初めてハイナー・ミュラーの演出が活きてきた…というわけ。

>ウィルソン=(…)私はこうしたワークショップや
>リハーサルでは、動きは動きだけ、音楽は音楽だけ
>といった風に別々に準備作業を進めるのです。パラ
>レルな形で、つまり同時にではなく平行する形で作
>業を進めるということで、その双方の表現を、一方
>が他方に従属してしまうという形でなく、各々に固
>有な表現を突き詰めつつ、それぞれ異なる表現体系
>の意外な遭遇からこそ作品全体の表現が強まるとい
>う信念を持っているのです。
>(僕のウィルソン・インタヴュー↓より)

 この「それぞれ異なる表現体系の意外な遭遇」という辺りが、音楽部門と演劇部門との決定的な齟齬になってしまうことが多いわけです。ただ、音楽=オペラ部門が相も変わらず「一体」型、「同化」型にこだわっていると、オペラというジャンルは十九世紀の演劇観そのままでどんどん取り残されてしまう。そこのところにオペラ部門はもうちょっと自覚的であってもいいと思います。
きのけん

http://members2.jcom.home.ne.jp/kinoken2/intv/intv_contents/intv_wilson.html

投稿: きのけん | 2007/03/21 10:19


>きのけんさん
どうも。(←こればっかw)

投稿: Orfeo | 2007/03/21 15:58

きのけんさん、Orfeoさん、
今まであまり考えたことはありませんでしたが、演出と演奏との間の一致、主従、ずれ、緊張関係等々、それぞれの背景があり、面白みがあるのですね。
このエクサンのコジではハーディングの指揮を「冴えない」と表現してしまいOrfeoさんの顰蹙を買ってしまったようですが(^^;)、やはり演出の個性の強さに呑まれていたのでしょうかね。それともオケのせいもあるのかなぁ?昨年ザルツのガラではVPOを見事にドライブしてましたからね(ドン・ジョヴァンニの場合は意味不明演出に気をとられて演奏は耳に残っていませんが(^^;))。

きのけんさの言われる「対位法」についてはそれらしき場面に出会ったことがないのですが、これから意識してみます。幸福な「一体型」ならばしばしば出会うのですがね。

投稿: YASU47 | 2007/03/21 17:30


YASU47さん、どうもです。

別に顰蹙を買ったとか、そういうことではなく、きのけんさんにしろ、私にしろ、向こうの一流の演出家たちの、その本職である芝居の分野での優れた仕事を数多く(私は少ない方ですが)見ているから、オペラ演出の現状、その問題点まで明確に見えているだけのことだと思います。こういう体験をして、現在オペラを見ることが出来る人なんて、そうそういないでしょうからね。だから、別にこれはYASU47さんを非難したわけでは毛頭なくて、オペラの世界の現状、その旧弊さに対する憤りが我々の間にはある、ということです。そうご理解下さい。

ハーディングの指揮に関して言えば、これは私の記事の中で語り尽くしたと思いますが、あそこで大家然した指揮が為されるようでは、このシェローの演出がぶち壊しになる恐れがある。だから、あれでいいんだ、というのが僕の考えです。だからこそ素晴らしいプロダクションになったんだと思います。僕は、初めてこの映像を見たとき、本当にボロボロ涙を流しました。こんな映像に出くわすのは、ひとつの奇蹟に違いないと思います。

投稿: Orfeo | 2007/03/21 18:58

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