« インテル勝利!決勝はやはりブラジル対決 | トップページ | リーグ1開幕!リヨン、控えメンバーで白星発進 »

2006/08/05

『羅生門』

夏休み・特別研究レポートNo.2(←いつからそんなものが・・・)

Dvdrasyoumon ▼黒澤明《羅生門》(日本、1950)

時代は平安時代。盗賊、多襄丸が藪の中で昼寝をしていると、侍夫婦が通りがかる。妻に目を付けた多襄丸は、夫をだまして縛り上げ、夫の目の前で妻を強姦する。その後、現場には夫の死体が残され、妻と盗賊の姿は消えていた。・・・物語は、この殺人事件をめぐり、目撃者の杣売(志村喬)と旅法師(千秋実)、捕らえられた盗賊(三船敏郎)と侍の妻(京マチ子)、それに巫女により呼び出された、死んだ侍(森雅之)の霊の証言により構成される。ところが事件の顛末は、証言者によってまったく食い違い、結局どれが真実なのか分からない・・・。

原作は芥川龍之介の短編小説「藪の中」。言わずと知れた黒澤明監督の代表作だが、黒澤監督自身、これが初の時代劇だった。第12回ヴェネチア国際映画祭グランプリ、第24回アカデミー賞最優秀外国語映画賞、並びに第1回ブルーリボン賞脚本賞などを獲得している。

三船敏郎の野性味溢れる奔放な演技や、平安美人風の京マチ子の儚いようでいて、その実、凄みのある女性像、そして志村喬の濃淡のある渋み、だとか、話の聞き手である下人役の上田吉二郎の突き放したような快活さ、などといったところまで、役者陣の好演が光っている。キャメラの宮川一夫も見事な仕事だ。が、橋本忍と黒澤監督の手による脚本は、私は問題があると思う。原作どおりの三人の証言の後に、杣売の新目撃証言で真相が明らかになるという構成を取ってしまっては、話の根幹が崩れてしまうのでは?じゃあ、なんではなから「わかんねえ。さっぱりわかんねえ」とやっていたのやら?杣売が孤児を引き取ることで未来に光明を見出すという結末もなあ・・・。正直、書き直してほしかったです(笑)。

|

« インテル勝利!決勝はやはりブラジル対決 | トップページ | リーグ1開幕!リヨン、控えメンバーで白星発進 »

コメント

 まづ最初は引用から。コメントは別項で入れます。
Orfeoさんご指摘のシナリオに関して…。
=====
「(…)何を撮ろうか、いろいろ考えているうちに、ふっと思い出した脚本があった。
 それは、芥川龍之介の『藪の中』をシナリオにしたもので、伊丹さん(万作、監督:十三の父=引用者註)に師事している橋本という人が書いたものだった。
 そのシナリオは 、なかなかよく書けていたが、一本の映画にするには短か過ぎた。 (…)
 この橋本は、後に『生きる』、『七人の侍』等を一緒に書いた橋本忍だが、その芥川原作『雌雄』というシナリオを思い出したのだ。(…)
 それと同時に、そうだ、『藪の中』は三つの話で出来ているが、それに新しくもう一つの話を創作すれば、ちょうど映画には適当な長さになる、という考えが浮かんで来た。
 また、芥川龍之介の『羅生門』という小説の事も思い出した。
  『藪の中』と同じ、平安朝の話である。
 映画『羅生門』は、こうして、徐々に私の頭の中で育ち、形を整えて来た。
(…)
 当時、私は、映画がトーキーになって、無声映画の好さを、その独特の映画美を何処かに置き忘れて来てしまったように思われて、何か焦燥感のようなものに悩まされていた。
 もう一度、無声映画に帰って、映画の原点をさぐる必要がある。(…)
  『羅生門』は、その私の考えや意欲を実験する恰好の素材であった。
 私は、人間の心の屈折と複雑な陰影を描き、人間性の奥底を鋭いメスで切り開いて見せた。この芥川龍之介の小説の題名『藪の中』の景色を一つの象徴的な背景に見立て、その中でうごめく人間の奇妙な心の動きを、怪しく錯綜した光と影の映像で表現してみたかったのである。
 そして、映画では、その心の藪の中をさまよう人間の行動半径は大きくなるので、舞台を大きな森の中に移し替えた。
 その森には、奈良の奥山の原生林と京都近郊の光明寺の森を選んだ。
 登場する人物は八人だけ。ストーリイは内容こそ複雑で深いものであるが、シナリオの構成も出来るだけ直裁端的なものにして短いものになったから、それを映像化する時には、存分に映画としてのイメージをふくらませる事が出来る筈であった。
(…)
 ところが、撮影が始まる前の或る日、大映が私につけた助監督が三人、私を宿屋に訪ねて来た。
 何事かと思って用件を聞くと、この脚本はさっぱり解らないので、どういう事なのか説明してもらいに来たのだと云う。
 私は、よく読めば解る筈だ、解るように書いた積もりだから、もう少し脚本をよく読んで欲しい、と云った。
 彼等は、それでは引き下がらずに、私達は脚本をよく読んだ積もりだが、それでもさっぱり解らないので訪ねて来たのだ、と重ねて脚本の説明を求めた。
 私は、簡単に説明した。
 人間は、自分自身について、正直な事は云えない。虚飾なしには、自分について、話せない。この脚本は、そういう人間というもの、虚飾なしには生きていけない人間というものを描いているのだ。これは、人間の持って生まれた罪業、人間の度し難い性質、利己心が繰り広げる奇怪な絵巻なのだ。諸君は、この脚本はさっぱり解らないと云うが、人間の心こそ不可解なのだ。その人間心理の不可解さに焦点を合わせて読んでくれれば、この脚本はよく解ってもらえる筈である。
 私の説明を聞いた三人の助監督のうち二人は納得して、もう一度脚本を読み直してみます、と立ち上がったが、あとの一人(チーフ助監督)の方は納得いかぬらしく、怒ったような顔をして帰っていった。
 このチーフ助監督とは、その後もウマが合わず、最後には事実上やめてもらうような事になったのは、今でも残念に思っている。
(…)
 撮影に入る前の稽古では、京ちゃん(マチ子)の熱心さに閉口した位である。
 なにしろ、私がまだ眠っている枕許に台本を持って坐り、
 『先生、教えておくれやす』
 と、云うんだから驚いた。
(…) 」
(黒澤明『蝦蟇の油ー自伝のようなもの』:「『羅生門』まで」章より)
引用:CineKen2

 いっぱい言うことがあるんでコメントはおいおい別項で…。

投稿: CineKen2 | 2006/08/06 03:53

▼コメントその1:
 クレジットによるとこの「チーフ助監督」というのが、なんと加藤泰らしいんですわ。だから「今でも残念に思っている」というのは、正直なところなんじゃないかと思います。というのも、この《羅生門》には、加藤泰の手が加わっているらしき場面が結構あるんですよ。例えば検非違使の白州の場面ですね。
 そりゃ、黒澤明と加藤泰ではキャメラ・ワークが全然違うんだ。「ウマが合わず」というのも実感だったろうと思いますよ。黒澤明の画が見事なのが俯瞰撮影の箇所なんですね。室内の場面だって、結構上から撮っていることが多い。ところが、加藤泰というのが徹底したロウ・アングルの人で、ロウ・アングルといえば、専ら小津が有名なんですが、さらに極端なのが加藤泰なんですね。まさか、小津映画はゲージツだから高級で、加藤泰はヤクザ映画だから下等(これはシャレじゃありませんよ!)だなんて思ってる人はよもや存在しないとは思いますが、加藤泰がロケをやる時は、まづ助手たちが穴を掘る作業から始まる。つまり、キャメラを入れる穴を掘るわけ。いくらロウ・アングルといったって、小津はそんなことはしません。キャメラ番の厚田雄春がちゃんとヴィム・ヴェンダースの《東京画》でそう言ってます(笑)。この検非違使の白州の場面がほとんどロウ・アングルで撮られているのは、加藤泰助監督の差し金だったに違いない!…。もし、黒澤的な発想を採るとすれば、キャメラの位置は、この場面に一切登場しない、まさにその検非違使の目の位置に設定されるはづ。その位置から眺めた俯瞰で撮られるのが黒澤的イメージだと思うんですよね。例えば、《生きる》のお通夜の場面も室内だからロウ・アングルで撮りたくなるシーンで、確かに時折ロウ・アングルもやってるんですが、あれは我々観客が外から室内を眺める視線、つまり黒澤流の俯瞰が基調になってる。
(この項続く)
CineKen2

投稿: CineKen2 | 2006/08/06 04:00


うおおおっ!?興味深い長文の引用、ありがとうございます!これって、まさか手打ち入力ですか?

まあ、なんだな、私がもしアシスタントだったら、あっさりクビ、ということで(笑)。
続き、楽しみにしています^_^;;

投稿: Orfeo | 2006/08/06 08:28

▼コメントその2:
>手打ち入力

 もちろんそうです(笑)。というのも、こういうのを入れておくと後で利用できるから。UKKEYブログに入れておいた引用箇所 (1)も同様。さらに、ジョン・フォード《リバティ・バランスを射った男》(>253-255 :1962) (2)の最後に入ってるやつもそう…。ほら、ここであれをそのまま使えるでしょ!…。

(1) :
http://myoujyou.cocolog-nifty.com/renge/2006/07/post_27c3.html#c8963521

(2) :
http://perso.orange.fr/kinoken2/cineken2/cineken2_cont/cineken2_archive/forum0503.html#253

 それから、なんであすこ (2)で唐突にあれを出したかというのがこの上の引用に出てくる「無声映画」についての箇所なんですわ。もちろん、Orfeoさんがつい最近ビリー・ワイルダー《サンセット大通り》に触れていらしたのも引用した理由の一つですね。
 あの中でグロリア・スワンソンおばさんがまったく同じことを言ってるでしょ。ビリー・ワイルダーの方は同年の作品だから影響関係は無いと思いますが、フォードの方は、当然《羅生門》を見てるわけよ。ひょっとしたら、師匠の方が弟子から影響されちゃってるんじゃないの?…というわけですよね。《リバティ・バランスを射った男》もフォードが無声映画に対する郷愁をナマの形で出したフィルムだから。まあ、彼の場合は、自らの遺作という意味合いもあったはづですが…。ま、そこまで深読みしていただかなくてもいいんですが、自分用のメモとしては非常に役に立つというわけよ。

 ただ、黒澤明の文章のスタイルってのが僕の文章のスタイルの対極にあるものだから、あれをコピーするのは結構骨が折れるんですわ…。それに他人の文章の引用だから間違っちゃまずいし…ね(笑)。

 …というわけで、上の引用を読んで、当然お気付きになったと思いますが(…だからコメント1ではその点に触れないで与太話をしてるわけよ)、上の引用で指摘したかった第一の点は Orfeoさんのご指摘がある意味で正鵠を得ていることですよね。つまり、ご指摘の挿話は、少なくとも当初の考えでは、映画の長さを整えるために便宜上「創作」され追加されたものであった点ですね。
 ただ、Orfeoさんと僕との意見の違いというのは、やっぱり僕は、あの挿話が無いと、原作から離れられなかったんだと思う。それに、最後の挿話で本当に真相が語られたかどうかは、まだ疑問なんだよね。ただ、Orfeoさんのお考えと一致するのは、あの結末をもっとはっきり疑問形にしておいた方が、黒澤明の意図そのものはもっとはっきり伝わったんじゃないか?…と考える点ですな。ただ、ああいう風な結末になったのは当時の作劇術の限界でもあったわけで、僕はより肯定的ですが…。つまり、ああいう形で終わらせなかったら、大映の助監督たちはもっと怒ったと思うよ(笑)。
(続く)
CineKen2

投稿: CineKen2 | 2006/08/06 11:56

▼コメントその3:

 …というのも、それが Orfeoさんはヴィデオで見たな…と直感した理由の一つなんですが、《羅生門》から直接インパクトを受けて別の映画を撮っちゃった人たちも、どうもああすこで真相が明かされたとはとっていないみたいなんだよね。

>この間、ぼくは黒澤明さんに会ったの。《ナイト・オ
>ン・ザ・プラネット》観なさいよ」、「どんな映画?」、
>「こんな映画で、 おんなじ時間にみなどうしてるか」、
>「面白そうだな」、「これ《羅生門》ですよ。《羅生門》
>がみんな、調べられた、おまえはそのときどうして
>たか、おまえそのときどうしてたか。 あれとおんなじよ。」、
>「そうだな」なんて言ってたけど(…)」
>淀川長治『淀川長治映画塾』(フリッツ・ラング)

 一つは、このジム・ジャームッシュ《ナイト・オン・ザ・プラネット》 。淀川先生は直感的に判っちゃってたらしいのが、なんとも憎たらしい(笑)んですが、あっ、ジャームッシュ、黒澤知ってるじゃん!と気が付いたのが《ゴースト・ドッグ:武士道》(>128↓ :米=仏、1999)でフォレスト・ウィテカーの愛読書にその『藪の中』が入ってて、《羅生門》の原作はこっちなんで、『羅生門』じゃないんだ、なんて言ってるところですよね。

>http://perso.orange.fr/kinoken2/cineken2/cineken2_cont/cineken2_archive/forum0502.html#128

 もう一つ、さらにこっちは、僕にだって明らかに判っちゃったのがブラジルの巨匠ネルソン・ペレイラ・ドス・サントスの《黄金の口》(>188↓:1963)というフィルムで、こちらも、あすこでは真相が明かされなかったととっているらしいんだ…。少なくとも彼のヴァージョンではそうなってる。

>http://perso.orange.fr/kinoken2/cineken2/cineken2_cont/cineken2_archive/bresil05.html#188

(続く)
CineKen2

投稿: CineKen2 | 2006/08/06 12:48


うわあ!やっぱり手打ち入力でしたか。お忙しい中、恐縮です。。。

まあ、最後の挿話がまるっきり真実ではないというのは、下人とのやり取りからも明らかですよね。人は皆嘘をつくもんだ、ということなんでしょう。ただ、あのまんまじゃ、あまりに自己矛盾していませんか?だから、もうちょっと構成にひねりがあってもよかったんじゃないかという気がするんですよね。いまいち影の薄い存在の旅法師を絡ませる、とかね・・・。

投稿: Orfeo | 2006/08/06 14:46

▼コメントその4:

 記事中の疑問「なんで?…」への回答は実に単純です。一言で言えば…雨が上がるからです。そんな理不尽な!と思われるかも知れませんが、黒澤明のイマジネール内部では、そうなってるに違いない。だから、あの豪雨は一度は映画館で体験しとくべき…なのよ。
 さすが、ジョン・フォードという人は、そういうことのよく判る人だったんで、ロンドンで初めて黒澤明に会った時、ひと言「君は雨が好きなんだねえ!」と言ったというんです。まさに達人の域じゃないですか!…。どんな優れた評論家の黒澤論だって、この一言には及ばないでしょう。…そう、黒澤映画では雨が降り出すと、何かとてつもないことが起こってくる予感がある。そして、雨が上がる時、すべては終わり普通の世界が戻ってくる。
 驚くべきことに、彼はそれを地で生きちゃったんですよ。黒澤明が、最後に書き残し、自身ついに撮ることのなかった脚本が『雨あがる』(1) 。雨が上がっちゃったら、黒澤明という映画作家、終わりになるより他にないんですわ。彼自身は、まさに《まあだだよ》では未だ死ぬつもりはなかったんだよね。でも『雨あがる』じゃあ、判らないよ。黒澤的なイマジネールの世界では「雨あがる」、即ち、何かの終わりなんだから…。Orfeoさんは矛盾してるって言うけど、黒澤自身のイマジネール内部では、全然矛盾してないの!…。雨が降っている間と雨が上がってからの志村喬は同じ人間ではないんだから…。

(1):http://perso.orange.fr/kinoken2/cineken2/cineken2_cont/cineken2_japon/ameagaru.html

 黒澤的風土というのは、あれでいて、だから、すごく日本的なんだよね、湿っていて…。ところが、逆に、まさにカリフォルニアみたいに乾いているのが小津的風土なんだよ。雨が全然降らない。全作品で雨が降ってるのはたった数度だけでしょ。だから、いったん雨を降らすとなると豪雨なんだよね。そう、《浮草》で京マチ子と中村雁治郎が大喧嘩をする場面には黒澤が憑依してきてるんだ!…。
 なにせ、小津安二郎は黒澤明の処女作《姿三四郎》に100点満点で120点を上げちゃった人だから、黒澤のものは全部見ていたでしょう。だから、時折、黒澤節が出てきちゃうんだよね。
CineKen2

投稿: きのけん | 2006/08/08 04:02


う~む、なるほどねえ。雨の映像作家、黒澤明、ということですか。《羅生門》の豪雨は、マジで半端じゃないですからねえ。あれは映画館で見たら、どえらい迫力でしょうね・・・。

そういや、次にここで扱う黒澤監督の映画も、その雨が重要な転機となっていました。こりゃ書き直さねば・・・(笑)。

それはそうとして、雨乞いをしたいです・・・(爆)。

投稿: Orfeo | 2006/08/08 10:24

ぼくはこれを当時は2本立て300円くらいだった池袋の文芸座ではじめてみまして(当時中学生だったか)、当時は何の知識もなくみたのもあって、筋がよく理解できず???だったのです。その後何度もみるにしたがって、こりゃあただものではない映画だぞい、と思うようになりました。
あ、そうだ、この映画も最後雨を使っていた。黒澤さん雨が好きなのかな(笑)

投稿: UKKEY(宵の明星) | 2006/08/08 13:00


UKKEYさん、こんにちは。
池袋の文芸座!懐かしい名前ですねえ。
私もよくあそこで映画を見ましたよ。
それにしても、中学生で見るには早過ぎるんじゃないすか、この映画(笑)。

投稿: Orfeo | 2006/08/08 16:16

>文芸座

 そういや、文芸座ってのは僕のテリトリーじゃなかったなあ…。どういうわけか、池袋の方には足が向いてないんですね(笑)。僕の行きつけだったのは新宿に三軒あった名画座。アート・シアター脇の地下にあったヤツ、伊勢丹前の大丸だっけ、三越だっけ?…のビル内にあったヤツ、それと西口の小田急の一角にあったやつ。それと渋谷東急文化会館のプラネタリウムのすぐ下くらいにあった…これだけは名前を憶えてる…東急名画座、最後にアテネ・フランセに通っていた時代の飯田橋佳作座かな?…。アテネ・フランセの映画上映会にもよく行きましたねえ…。
CineKen2

投稿: CineKen2 | 2006/08/09 00:55

▼コメントその5:

 上の雨の話を出したのは、そういう風に見てると、シナリオの「不備」?…は全然気にならなくなるからなんですが、それよりもまづ、この時代の黒澤の大きな魅力というのが、相当強引でデタラメなことをやっても、それを納得させちゃうような馬力なんだよね。
 僕が、初めてそれに気が付いた…というか、そうなんだ、こういうのって弱点なんじゃなくって、逆にその後の黒澤ではだんだん見られなくなっちゃう強みなんだって気が付いたのが、《素晴らしき日曜日》(1947)のラスト・シーンなんだよ。これはだいぶ前、Orfeoさんの参加以前だったか以後だったか?…W−MLで例のIさんと大論争した、まさにその点なんだけど、Iさんというのは、そういうのは絶対に認められないんだよね。
 つまり、色々なことがあって日曜日のコンサートに入れなかった貧乏な恋人たち二人が、公園の誰もいない野外ホールで、男(沼崎勲)が指揮者になって、女(中北千枝子)一人をお客さんとする架空の音楽会でシューベルトの《未完成》を振るわけよ。それが終わって、大画面いっぱいいっぱいに中北千枝子のどアップが出て、映画の中の架空の聴衆というより、直接映画の観客に向かって、皆さん、拍手をしてください!…と訴えかける、あすこよ。あれには正直言って度胆を抜かれたですよね。あんな滅茶苦茶なことを平気でやった奴なんて、おりゃせん。その時、シネマテークの客が本当に拍手したかどうかは憶えてないんだけど、こちとらビックラ仰天!で、映画であんなに驚いたことって、まづないぜ。
 この時代の黒澤明ってのは、そういう出鱈目を許せちゃうところがあるんだよ。もう一つ例を掲げておくと、《生きる》(1952)の名場面とされる志村喬が自分の使命に目覚めるシーン。なにが「名場面」なもんか!、あんなわざとらしい俗悪きわまりない場面を我慢できる奴ってのは、余っ程趣味の悪い奴に違いないんだよ。喫茶店のこっち側で、志村喬と小田切ミキが寂しく会ってる。小田切嬢は、こんなジイサンのお相手なんぞはもうウンザリ…、志村喬は自分が癌でもうすぐ死ぬことを言い出せない。その向かい側の部屋では、華やかなお誕生日のパーティーの準備中で、皆が当夜の主人公のお嬢さまを待ってる。小田切が自分の工場で作っているウサギの玩具を持ち出して、こんなものでも使う子供たちのことを考えると、作ってるのが楽しい、なんて言うと、突然、志村じいさんが自分の使命に目覚め、未だやることがある!ってんで喫茶店の階段を駆け下りていく。と、向かい側のパーティーの主人公到着で、志村喬が駆け下りていった同じ階段を、その青山京子がすれ違いに上ってくるわけよ。それであっちでは「ハッピー・バースデイ」の大合唱が沸き起こる…(その「ハッピー・バースデイ」が志村が市役所に出ても未だ鳴ってる)。こういうのって、すごく恥ずかしくない?…。僕なんか、最初見た時、見ててこっ恥ずかしくって、頬が赤らんできちゃったけどね。もう、止して欲しいよねえ!…なんて。負けちゃうんだけれど、ただ、この時代の黒澤ってのは、こういうことを強引に押し通しちゃう凄味ってものがあるんだ。僕はそういうのを仮に「映画的欲望」って呼んでるんですけど、その強さね。同じく志村喬がダンス・ホールで例の「ゴンドラの唄」(生命短し恋せよ乙女…)を歌い出しちゃう箇所。突然すごいどアップになるんだよねえ。もー恥ずかしい!…んだけど、結局黒澤のエネルギーに押し切られちゃう。やたらこっ恥ずかしいんだけど、いったいオレはこんなのに感動してて、どうゆう風の吹き回しなんだ?…なんて思うんだけど、とにかく感動してるわけよ!…。
 確かに、Orfeoさんのご指摘は、その通りに違いなかろう…なんだけど、僕としては、あれには一切手を触れてもらいたくないよね。うー恥ずかしい!なんて思いながらも、やっぱり初めて見た時、あれに感動してたみたいだぜ。
CineKen2

投稿: CineKen2 | 2006/08/09 02:22


・・・W-MLのIさんっていうのは、管理人のIさんのことですよね。だとしたら、それはやはり私の参加以前の話みたいですね。そうですか、そんなことがありましたか・・・。

それにしても、驚きました。なんでって、次にここに出すのが、実はその《素晴らしき日曜日》なんですよ!こんなのって、あり?(爆)もう原稿はできているんで、すぐに出してもいいんですが、今夜はサッカー日本代表の試合があるし、明日はリベルタドーレスの決勝があるんで、バタバタしちゃって落ち着いて話にならないだろうから、週末までお待ちを!

投稿: Orfeo | 2006/08/09 08:37

 …でもサ、Orfeo=きのけん or Cineken2のツーカー!って、これまでにも何度かあったじゃない。
 でも、ちょっとヤバいなあ。僕はあの《素晴らしき日曜日》って、もう20年以上も見てないぜ…。日本に帰った時、黒澤作品でDVDで持ってないのを揃えようと思ったんだけれど、なにせ1枚 6000円もするんで、ふざけんじゃないよ!なんて買わなかったんだ。

>W-MLのIさん

 あっそうか!、両方共「I」さんだったか!。管理人のIwaさんと僕は「喧嘩」はしたけど「論争」はしてないでしょ。しょっちゅう「論争」してたたのは「Iii」さんの方よ(笑)。
 あいつ、どうなったかなあ?…。お風呂用のさる香水を買ってきてくれ、というのを未だ憶えてるんだけどねえ…。
CineKen2

投稿: CineKen2 | 2006/08/09 17:42


・・・うん?じゃあ、《素晴らしき日曜日》で大論争したってのは「Iii」さんのほう?じゃあ、読んだはずだけど、記憶にないなあ・・・。あっ、おいら、「Iii」さんのメールって、直接ゴ○箱行きにしてたかも!(笑)

日本のDVDは相変わらず高いですからねえ。オペラのほうは若干値が下がってきた部分もありますが、それでも、こないだやっと国内盤が出たブーレーズの《リング》が希望小売価格約4万円。輸入盤だと2万円を切りますから、2倍ですよ、2倍!一体どうなってんだといいたいですね(笑)。

投稿: Orfeo | 2006/08/09 19:41

 なにせ「研究レポート」だから少し長くなっちゃってもいいでしょ(笑)。

▼コメントその6:
 やっぱし、僕のバイブルからも引用させといて!…淀川長治『映画塾』の「日本映画の巨峰 黒澤明」より:

 (…)私は待ってました。あの『羅生門』って待ってました。この映画から黒澤さんが実力をはっきり見せたんですね。これ観る前に私は頭に入れました。『羅生門』、ふーん。月が雲に入るだろ、三日月が。そしたら、くろーい、崩れかかった羅生門が出るだろ。みんながうずくまってるだろう。恐らく琵琶が入るだろ。ピーン、ピンピンピンピーン。尺八の音がするだろ。できたら遠くに琴の音がするだろ。あるいは法螺の、ブゥー、いう音がするかもわかんない。その古典の中で『羅生門』はスタートするだろう、思いました。
 期待して観たらぜんぜん大違い。ザーッと雨。すごい雨、すごい雨。びっくりしたね。羅生門はススキの中で、化けもんみたいに崩れかかった門があって、月が入りかけて、こわーいところから始まる、思ったら、ザーッと雨。目で見る。映画は目で見るもんでっせ。私はあっけにとられた、その雨に。その雨が、鬼瓦に叩きつける雨。羅生門の瓦から、ザーッ、滝のようにしずくが落ちる雨。その雨が下の石の板や敷石に当たって、流れて流れて、階段に下りてきて、階段の前の溝に流れていく。その溝に水煙が立ってる。えらい雨なんだ。(…)ふーん、と思ったら、その崩れかかった羅生門の中で、ゴーリキの「どん底」のようにみんなうずくまってる。みんなが人生に疲れ切って、ぐったりしてる。お寺の坊さんもおれば、山賊みたいな男もおる。なんていうところから始まって。何ともしれん、すごいスタート。ふーん、『羅生門』、面白いなと思った。ザーッと雨、ずっと雨の音。雨の中に、人生に疲れ切った、死にかけたようなかたまりがおる。崩れかかった羅生門の下に、うまいな。目で見るな、目で。
 一人の木こりが、わしはな、あの時悪いことをしたんだよ。何したんだ。森に行ったらね、わしが歩いている足下に刀が落ちていたんだよ。わし、その刀とったんだよってところから、キャメラがパーッと変わって、森になった。今までの雨が、ぜんぜん雨の気のない森の中をずーっとキャメラが移動する。ずーっと移動する。歩いてる。志村喬が歩いてる。何ともしれん、森のグレーだね。雨が真っ黒だったから、今度はグレーだね。歩いてる。(…)この映画、どんどん、どんどん、森へ行って、それから話はずっと始まりますけど、目で見る。目で見る。目で見る。
 やがてお裁きになった。(…)
 こんなに目で語る映画はないなぁと思って、ぼくはびっくりして見てると、今度は女の番に(…)
 わあ、このキャメラ、きれいな。だれだろう。宮川一夫。後に宮川一夫に会ったの。あんた、あのキャメラ、きれいだったな。二人がいるところ、上から、森の上から、梢から太陽がピカッ、ピカッ、ピカッ、光って見える。枝が、枝が、枝が。体にちょっとライトが当たる。きれいな。あれね、なかなか撮るの難しくってな。下から太陽映しても、太陽の光線が、太陽きついからな、そこが撮りにくうてな。
(…)
 びっくりしたけど、まだぼくはボレロが気に入らない。これがボレロじゃなくて筑前琵琶だったら、ピーン、ピーン、ピンピーン、その『羅生門』だったらどんなにいいだろうと思って、ぼくは採点をちょっと鈍った。百点満点にしなかった。九十八点くらいにしとった。(…)
(淀川長治)
copy &引用:CineKen2

投稿: CineKen2 | 2006/08/11 06:10


・・・こらまた長文の引用、ありがとうございます^_^;;
淀川先生、語ってくれますねえ。「目で語る映画」・・・。さすがに先生、味わい深いことをさらりと言っちゃってくれますよねえ。脱帽!(笑)

投稿: Orfeo | 2006/08/11 08:28

 …そうそう、CineKen2でしょっちゅう引用してて、何処から取ったのか不明だった引用をここで見付けたよ!…。「映画は目で見るもんでっせ」という一句。口調からして淀川先生のだとは判ってたんだけど、こんなとこにあったよ!(笑)。

▼コメントその7:
 さっき、《素晴らしき日曜日》のコメントを入れてて、ハッと思い出した。淀川さんによると、黒澤明はローランド・ウェストという人の《アリバイ》(1929)というのを下敷きにしたらしいんだけど、ほぼ同時期ニコラス・レイが似たような発想でスリラーを撮ってるんだよね。あっちは伝統的な結末が付いてて真相がちゃんと割れるんだけど。《女の秘密》(>リンク↓:米、1949)というヤツ。
http://perso.Orange.fr/kinoken2/cineken2/cineken2_cont/cineken2_archive/forum0504.html#330

CineKen2

投稿: CineKen2 | 2006/08/11 12:13


・・・うん、さすがに黒澤明という人は、外国映画をよく見ているなあ、と思います。《素晴らしき日曜日》にちらほら現れる東京の街並みを描いた書割が、なんともいえず洋モノっぽいんですよね。これがパリだ、といわれても、そのまま納得しちゃうかも、ってなぐらいに・・・(笑)。

投稿: Orfeo | 2006/08/11 13:27

 …というのも、黒澤明のお兄さんというのが有名な弁士なんですよ。神楽坂のお兄さんの下宿に転がり込んでいた時期もあったらしいし(これが《どん底》に使われてます)、そんなことで、映画だけは随分沢山見れたはづだぜ。

Orfeoさん:
>それはそうとして、雨乞いをしたいです・・・(爆)。

 梅雨の間は九州地方集中豪雨ってんで、Orfeoさんちの近くにも川があったみたいだから心配してたんですが…そうそう「雨乞い 」がありましたな!
 雨乞いにちょうどいい映画ありますよ!…。杉森秀則《水の女》(日、2002)。これをやったら絶対に雨が降る!。だいたい主人公の名前からして「清水涼」( UA)、名前の漢字3字とも水に関係ある。魚座の生まれ、小学校の頃から彼女が遠足についてくると、その日は必ず雨になった…という。
 でも、彼女、銭湯の番台に座ってるお姐ちゃんなんですわ。だいたい、こっちには日本式の銭湯なんてないし、ましてや、銭湯の壁には必ずエッフェル塔ならぬ富士山が描いてあるなんてこと、こっちの人は知らんもんね。だから、こっちではロードショウ1週間で下げられちゃった。

>http://perso.Orange.fr/kinoken2/cineken2/cineken2_cont/cineken2_archive/forum0502.html#199

CineKen2

投稿: CineKen2 | 2006/08/12 16:48


黒澤映画のおかげで「雨乞い」効果が出たのか、昨日強烈な雨に見舞われました。それも、《羅生門》なんてかわいいもん、てなぐらいの強烈なやつが!いやあ、ビックリしたなあ・・・。ウチは11階建てのマンションの2階なんですが、ベランダの排水が間に合わず、どんどんたまって池みたいになっちゃって、「スワッ!?床上浸水か?」(←2階で床上浸水というのかどうか、甚だ疑問ですが・・・)なんて感じで焦りましたよ。日本の気候は中庸というものを知りませんな・・・(笑)。

《水の女》、面白そうですね。今度雨乞いしたいときに探してみます^_^;;

投稿: Orfeo | 2006/08/12 18:03

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/122009/11262620

この記事へのトラックバック一覧です: 『羅生門』:

» 黒澤明 監督作品一覧 [日本映画 監督篇~黒澤明~]
黒澤明 監督の映画ブログを開設しております。よろしくお願いします。 [続きを読む]

受信: 2006/08/11 00:54

« インテル勝利!決勝はやはりブラジル対決 | トップページ | リーグ1開幕!リヨン、控えメンバーで白星発進 »