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2006/05/06

『皇帝ティトゥスの慈悲』(チューリヒ歌劇場)

Dvdtitozurich DVDライブラリーより。

現代版『ティトゥス』。レチタティーヴォの部分はセリフで処理されている。おいら、前から何度も書いてるとおり、カサロヴァって歌手が大好きなんですよ、CDで聴くぶんには・・・。でも、彼女がオペラに出て来ると、やっぱり駄目だあ!なんで歌うときにいつも顔を歪め、きつい目つきで睨みを利かしてしまうんでしょう?セリフのときは普通なのに、肝心要の歌の場面がこれじゃあなあ。聴くぶんには極めて上質のセストなだけに、本当悲しいです。
ジョナサン・ミラーの舞台は渋い色調で、かつスタイリッシュにまとまっているし、メイ、ハルテリウス、ニキテアヌなど共演者も揃っていて、なかなか見事なんですが、出来れば映像は見ずに、音だけ聴いていたい公演です。

あまりにそっけないので、久々「Orfeo版・明解モーツァルト講座」のコーナー。(←そんなコーナー、あったっけ?)

モーツァルトのオペラで特徴的なのは、話の中でほとんど人が死なないことにあると思います。躊躇なくどんどん人を殺したり、病気で死なせたりするイタリア・オペラとは、この点でまったく異なります。もちろん、例外もあります。ドン・ジョヴァンニと騎士長、そして『魔笛』の夜の女王御一行様(・・・他にいないこともないけれど、でも、ほとんど分からんでしょ?これが誰だかすんなり言えたら、その人は相当なモーツァルトおたくだなw)。オペラの冒頭でドン・ジョヴァンニに殺されてしまう騎士長だけは同情の余地がありますが、それ故に主役たるドン・ジョヴァンニは報いを受けて最後に地獄落ちするわけですから、騎士長の死は必要不可欠、ドン・ジョヴァンニの死も因果応報といえます。そもそもヒドイ野郎だしね(笑)。夜の女王たちに至っては、元々現実離れしている形象なので、結末でのその地獄落ちも生々しい感じはまったくしません。
というわけで、モーツァルトのオペラは、「人に優しいオペラ」になっています。でも、こうなると、ドラマとしては処理に困ります。つまり、対立しあう人物たちがドラマチックに決着を付ける、というわけにはいかないからです。そこでモーツァルトが採用したのが「赦し」による解決です。『皇帝ティトゥスの慈悲』ではもちろん皇帝がヴィテリアたちを赦し、『後宮からの誘拐』ではセリムがコンスタンツェとベルモンテたちを赦し、『フィガロの結婚』では伯爵夫人が不実な伯爵を赦し、『コジ・ファン・トゥッテ』では・・・もう言うまでもありません。
最近ではよく、「癒しの音楽」と言われるモーツァルトですが、その正体は実は「赦しの音楽」だった、なんて言えるのかもしれませんね。では、また次回。(←あるのかよ?)

★★★

ティトゥス:ヨナス・カウフマン
ヴィテリア:エヴァ・メイ
セスト:ヴェッセリーナ・カサロヴァ
セルヴィリア:マリン・ハルテリウス
アンニオ:リリアーナ・ニキテアヌ
プブリオ:ギュンター・グロイスベック

合  唱:チューリヒ歌劇場合唱団
管弦楽:チューリヒ歌劇場管弦楽団
指  揮:フランツ・ウェルザー=メスト
美  術:イザベラ・バイウォーター
演  出:ジョナサン・ミラー

[  収録:2005年6月、チューリヒ歌劇場  ]

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コメント

 Orfeoさんのレヴューを見てると、チューリヒというのは随分映像に力を入れてますねえ…。一頃のリヨン歌劇場みたいだな!。一頃、ジャン=ピエール・ブロスマン総監督(今シーズン末までパリ・シャトレ座総監督)とケント・ナガノ音楽監督(これがまたすごい映画ファンでねえ…、吉田義重《蝶々夫人》、勅使河原宏《トゥーランドット》…全部あいつのアイデア)時代のリヨンがすごくて、日本のパイオニアまで肩入れして、新制作毎にビデオを作ってましたが、チューリヒもかなりすごいね。
 ただ、最近オペラを含めた劇場中継に新しい傾向が出てきてまして、つい数日前欧州文化チャンネルARTEが実況中継したパリ・ヨーロッパ劇場オデオン座新装開店こけら落としのジョルジュ・ラヴォーダン脚色&演出版《ハムレット》の実況中継がなかなかすごいものでした。この中継のためだけにまるまる4週間かけて中継用リハーサル、当夜ホールに中継用キャメラ十数台を入れ…、ここままで徹底してやっちゃうと、劇場中継なんてもんじゃなくて確実に一個のヴィデオ作品になりますよね。同じ制作スタッフが今度はバスチーユのヴェルディ《シモン・ボッカネグラ》に取っ付いて今準備中。これもARTEで放映される予定ですので、請うご期待。普通のオペラ中継とは全然違ったものになるかもよ?…。
 カサロヴァがテレビでよく見えないってのも、無作為に馬鹿みたいにただアップを撮ってるだけじゃ、そりゃ上手く撮れないに決まってる。
 小津安二郎が、あのごく単純なアップと切り返しの対話を撮る時だって、すごいんだぜ。スクリーンで二人の顔がちゃんと同じ大きさになるようキャメラとの距離を定め(特に顔の大きさの違う男と女の対話の場合)、影ができる目の窪みの箇所だけに小さな補助の照明を当てたり、箸の上げ下げまで何センチなんてちゃんと決まってるわけよ!…。普通役者さんたちは自分の演技が悪いんでNGになると勘違いするんだけど、そうじゃなくて画面構成に歪みが出るんで60回もNGが出たりするんだよね。だから役者が上手ければ上手いほど、即興的な演技ができる奴ほどNGが沢山出るわけよ。さらに前の人の台詞が終わって、丁度10コマ間をおき、切り返してさらに6コマ間を入れ、次の台詞が始まる(この間2/3秒)…なんて厳密に決まってるんだよね。そこまでやらないと独立した映像作品としての画面構成にならないし、リズムも出ない。カサロヴァちゃんだって、撮る人がちゃんと考えて撮れば、絶対に魅力的に撮れるはづだって!…。実際の舞台じゃ、そうも気にならないでしょ。…なんて、僕は1度くらいしか実物を見たことないけど。少なくとも見ていてそう醜悪なものじゃなかったぜ。
きのけん

投稿: きのけん | 2006/05/08 18:43


うおあおっ!?ラヴォーダン、オデオン座で『ハムレット』やったんですか?観たいなあ!でも、芝居のDVDなんて、出ませんよね・・・(泣)。あっ、でも、そこまで力を入れて制作した映像なら、ひょっとしてひょっとする?
私は94年にコメディ・フランセーズのほうで彼がやった『ハムレット』の舞台で衝撃を受けたクチです。今回はまったく新しい感じなんですかね?

カサロヴァに関しては、さすがに言い過ぎだと反省していますが、でも、一旦気になりだしたら、もうどうしようもないんですよ(笑)。チューリヒのカメラはどうにもいけません。

投稿: Orfeo | 2006/05/08 19:52

>話の中でほとんど人が死なないこと(…)

 そうそう、モーツァルトってのは、そういう風にして聴衆を扇動する必要を全然感じていないんだよね。そこが、イタリア・オペラ…というよりワーグナー…と言いたいですけど…との違いですよね。

 ただ、確かに、人はあまり死なないけど、ごく微妙に「死」を挿入させちゃうんだよ。最も典型的な例が《フィガロの結婚》第四幕冒頭のバルバリーナのアリア。僕なんかあのオペラを初めて舞台で見た後数日間あのアリアばっかり頭にこびりついちゃって弱った経験があるんだけど、それは理由のないことではなかったんだよ。
 こういう調性にまつわる感性というのはバロック音楽に特徴的なもので、現在ではほとんど失われてしまっているんだけど、あのアリアをモーツァルトはへ短調、つまり突如として教会音楽の調性で書いてるんだよね。だからあれだけがすごい悲調になってるでしょ。一度聴いたら忘れない。何故だろう?…。
 《フィガロの結婚》の話が《セビリアの理髪師》の話の続きなことは誰でも知ってる。ところがだね、原作ボーマルシェのフィガロ・シリーズってのは三部作なんだ。つまりあれにはまだ続きがあるんだよ。《罪ある母》。本国フランスでだってめったに上演されない台本ですけど、その《罪ある母》がどういう展開になっているのかというと…。バルバリーナがあすこでケルビーノに恋していることはオペラの物語からも判るわけですが、《罪ある母》まで行って判るのは、伯爵が疑ったまさにその通り、伯爵夫人とケルビーノはちゃんとできちゃってて、伯爵夫人はケルビーノの子供まで産んじゃうんです。だから「罪ある母」。それで、ケルビーノは結局兵隊として戦場に送られて戦死しちゃうんですわ。
 もちろんノーテンキなダ・ポンテさんはそういう翳の部分というのをリブレットには入れていない。ところがモーツァルトさんの方では…知ってるんだよねえ!。このバルバリーナというのがこれからどんなに悲劇的な形象になっていくのか!…。それであのアリアをあんな悲劇調で書いちゃうわけ。あすこには《罪ある母》を予感させる「死」が突出してきているというわけだ。
きのけん

投稿: きのけん | 2006/05/08 20:12


うんうん、《罪ある母》は興味深いですねえ。ボーマルシェの芝居なんて、こっちじゃ全然観る機会がありませんけど、どっかでこれ、上演してくれないものかな?

投稿: Orfeo | 2006/05/08 21:22

 …まづないです。あまり面白い芝居でもないし、僕が見た唯一の舞台がコメディー・フランセーズのジャン=−ピエール・ヴァンサン版だったんですが、その他1度だにやってるのを見たことがないよ。
 そういや、政権が代わるやいなやコメディー・フランセーズの総監督を解任されたジャン=−ピエール・ヴァンサンが初めてやったのが《フィガロの結婚》でヴィテーズのシャイヨー国立劇場でした。後に、再度政権交代で(もうホント、公共劇場制度ってのはねえ!…)、今度はヴィテーズがコメディー・フランセーズに任命された時の初演出がこれまた《フィガロの結婚》じゃなかったけ?…。あれって、フランス人にとって一種祝祭的な意味合いがあるみたいね。ドイツ人にとっての《フィデリオ》か《マイスタジンガー》みたいに…。
きのけん

投稿: きのけん | 2006/05/14 16:06


う~む、なるほど。でも、その原典版《フィガロの結婚》ですら、こちらではお目にかかれないですもんね。悲しいお話だこと・・・。

コメディー・フランセーズといえば、私が初めてフランスに行った80年代前半に《人間嫌い》を観ましたが、あれがヴァンサンだったのかな?ちょっと公演プログラムが行方不明で、分からなくなっちゃってますが、その頃、彼、あそこで仕事してました?

投稿: Orfeo | 2006/05/15 08:43


プログラム、発見しました。84年9月、やっぱりヴァンサン演出、でした。なんだかスッキリしたなあ!(笑)

投稿: Orfeo | 2006/05/15 09:12

 …そうそう、あれはジャン=ピエール・ヴァンサン時代のコメディー・フランセーズの2シーズン目の開幕作。モリエールだというのに、ちっとも喜劇的じゃないんで物議を醸した制作でした。主役のミシェル・オーモンが自らの強固な意志、信念で社会から逸脱していく…という話に作ってあったよね。…そう、ヴァンサンが1986年に突然解任になった時、政府への面当てでもなかったんでしょうが、あれを再演してました。Orfeoさんがご覧になったのは初演の時です。もしや、同じ日に行ってたりして?…。僕は 1984年9月16日の公演です。
 そうそう!、Orfeoさんがご覧になったヴィテーズ演出版《繻子の靴》で主役ドニャ・プルエーズを演ってたリュドミラ・ミカエル(英国の演出家テリー・ハンズ夫人:あいつコメディー・フランセーズに《十二夜》を演出に来て、ちゃっかり主役の女優さんを引っ掛けていっちゃったんだ!〜笑〜)がこっちでも相手役セリメヌでしたねえ!…。
 実は、ヴァンサンはストラスブール国立劇場時代にも《人間嫌い》をやってまして、僕はそれが彼のものを見た最初だったんですが、面白かったのはジャン=ポール・シャンバスの舞台美術で(両方共)、これがまるで描きかけで放っぽり出された絵画なんだよね。ストラスブール版ではもっと派手で、舞台装置の一部の色が塗りかけになっていたりしたんですが、シャンバスというのはコブラ派という一派の本職の画家なんで、本職の絵の方でも、わざと描きかけのまま残してあるといのが結構多いんだ。シャンバスもその後オペラ部門での仕事が多いですね。小澤征爾が振った《トスカ》(演出ジャン=クロード・オーヴレ:ガルニエ版)なんかたいしたもんだった。さすがこの人は自分を弁えてるから演出までは手を出してないみたいですが…。この人の舞台美術は面白いよ。Orfeoさんのレヴューにも何か入ってたっけ?…。
きのけん

投稿: きのけん | 2006/05/18 17:07


・・・おぉっ!?ニアミスしていたようですねえ!私は平日のマチネを観ました(何日だったかはさすがに分からないなあ・・・)。観客はやたら若者が多かったですが(学生かな?)、初訪仏で正真正銘のお上りさん状態だった私が驚いたことに、芝居の最中、まったく客席から笑い声が上がらない!「これ、モリエールだよね?コルネイユじゃないよね??」と大きく疑問に思ったものでした。それもその筈、やたら重々しい舞台でしたもんね。いやあ、疲れましたよ、あれは(笑)。

ポール・シャンバスの舞台美術はここではまだ扱っていないと思いますよ。

投稿: Orfeo | 2006/05/18 18:01

Orfeoさん、こんにちは。
この上演は録画し損ねたんですけど、カサロヴァ@セスト、ザルツブルクの映像を見ました。このカサロヴァ、とってもいいです。気に入ってしまいました。
映像違いですが、リンクとTBさせてくださいm(_ _)m

投稿: edc | 2006/11/01 10:18


edcさん、どうもです。
ザルツブルクのカサロヴァ、見たいような、見たくないような・・・(笑)。
でも、聴きたい!

投稿: Orfeo | 2006/11/01 12:01

おジャマしま~す。
興味深く本文読ませていただきました。
なるほど、赦しの劇ね。実はこれ当時(ちょっと前の時代ですが)の典型的な一つの形だったんです。頑固な為政者が最後に慈悲を及ぼすことによって大団円、みたいな。これはなにもモーツァルトに限られたことではありません(サリエーリの「オルムスの王アクスール」など同様の劇は当時流行でした)。当時「慈悲劇」というひとつのジャンルを築いていたものです。もっともモーツァルトのころにはちょっと事情が変わって来ていたのですが、彼がその中あえて古臭い慈悲劇を投入したのには、恐らく戴冠式の演目として、彼なりの気を遣ったつもりだったのでしょう。
言わずもがな、彼の本領発揮はまさにフィガロにおける伯爵夫人のような「権力ではなく愛による慈悲」であるわけで、それは図らずも作品の出来に現れてしまっています。
しかし、彼の人に対する洞察力には圧倒されます。かなりの人間不信者だったのかもしれません。彼はご指摘のとおり主たる登場人物を決して殺しません。いつも殺されるのは物語進行上どうでもいい人です。しかし、彼は知っています。「死」など、恐るるに足らぬことだと。現実を背負わされ生き続ける事の方が、むしろよっぽど残酷なのです。バラバラに引き裂かれもはや修復不可能なカップル、放蕩騎士がいなくなったとたん皮肉にも生きる目的があやふやになってしまった人たち、一見解決したようで実はなんにも解決していない4組のカップル、貞節のために自分の真実の気持ちを否定し続け許婚と故郷に帰る決心をした女とその気持ちをわかっていたからこそそれを黙って見送った為政者、名誉はないけど酒と女という欲を手に入れた無法者と名誉という秩序と規則でがんじがらめにされた王子のカップル、そして慈悲によって和は保たれたものの一人だけ別フレーズを歌い続ける行く末不安な皇帝・・・誰もかれもが不幸せです。
モーツァルトの天才であるゆえんは、リブレットと相反する音楽を鳴らさせることで、本当の気持ちを楽譜に隠してしまったことですね。どことなくレオナルド・ダ・ヴィンチを思い起こさせます。

では、これからも頑張ってくださいね。

投稿: 智 | 2008/07/19 15:45


智さん、はじめまして。
ご丁寧な背景説明ありがとうございます^_^;;

ただ、目下オペラとは全然別な分野に没頭中でして、
「頑張って」と言われても、全然頑張れない・・・(苦笑)。

投稿: Orfeo | 2008/07/19 17:38

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受信: 2006/11/01 10:18

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