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2005/11/11

『スティッフェリオ』(ロイヤル・オペラ)

Dvdstiffelio DVDライブラリーより。

ヴェルディ作。舞台は19世紀初頭のドイツ。

妻の不貞というテーマが時代にそぐわず、即刻上演禁止となってヴェルディ自身もそのスコアを破棄してしまったが、近年ナポリでそのコピーが発見され、ダウンズの手によって蘇演された。ドラマとして見ると、やはり劇的構成力が弱いと言わざる得ないが、マルフィターノ、ユリシックといった面々がその難しい役どころによく同化して歌っている。ただ、カレーラス・ファンには誠に申し訳ないが、カレーラスって、歌はいいんだけど、演技がねえ。両手を広げて朗唱するばかり。まるでリサイタル状態。演出家がこれを許しているのが不思議です。

★★★

スティッフェリオ:ホセ・カレーラス
リーナ:キャサリン・マルフィターノ
スタンカー:グレゴリー・ユリシック
ラッファエルロ・ロイトホルト:ロビン・レッゲート
ヨルグ:ギネ・ハウエル
フェデリーコ:リントン・アトキンス
ドロテア:アデレ・パクストン

合  唱:コヴェントガーデン王立歌劇場合唱団
管弦楽:コヴェントガーデン王立歌劇場管弦楽団
指  揮:エドワード・ダウンズ
演  出:エリジャ・モシンスキー

[  収録:1993年1月29日、コヴェントガーデン王立歌劇場  ]

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コメント

>カレーラスって、歌はいいんだけど、演技がねえ。両手を広げて朗唱するばかり

カレーラスだから許しちゃう・・しかない。
まあ、彼自身、舞台より、コンサートの方が好きみたいですよね。

最近は、オペラ歌手も学校で演技の指導をしているらしいですが、かえってドタバタ動くだけが演技とおもっている歌手もいるようですね。
私に言わせれば、まず、手を上げたり、身体を揺すったり、踵を上げたりしないで、ピタッと自然な美しい立ち姿で歌うことが基本で、その上に演技が加わらないと、見苦しいばかりです。
それから、口が曲がるのも映像化時代には致命的ですね。これは、どうしようもないのかな?

シェローは、手の位置にもとにかくうるさいそうです。ライモンディが言ってました。
まあ、スター級になると、その時には「はい、はい」と言っていて、本番ではやらない歌手も多いでしょうけどね。
自分で俳優やってたような人で、カリスマ演出家じゃないとオペラ歌手を動かすのは難しいでしょうね。

この「スティッフェリオ」、なんと陳腐な・・誰にも感情移入できませんってなことで、一回見ただけで、二度と見ようとは思いませんでした。
でも最近クーラがやってますが、クーラなら面白いかもしれません。写真で見ると面白そうです。
カレーラスもそうですが、クーラもマイナーなオペラが好きですね。
「妖精ヴィッラ」なんてのをやってますね。

クーラは目でしか演技をしてないんでしたっけ。(笑)


投稿: keyaki | 2005/11/11 10:15

keyakiさん
楽しいコメント^^!

テレビでやったときとりあえず録画して、ざっと見た記憶が・・・ 

「演技」って一言でくくれないですね。同じ言葉使ってたって思ってること相当違うというか・・・私には
リサイタル・モードにしか見えない「演技派」歌手もいるし、
>ドタバタ動く
からって納得の「演技」になるってわけでもないし・・
>学校で習って
できるものではないでしょうね・・ 
習わないよりはいいかもってぐらいかしらねえ・・

投稿: edc | 2005/11/11 10:27


>keyakiさん、edcさん、
まあ、オペラ歌手に舞台俳優並みの演技力を求める気はサラサラありませんが、少なくとも自然に振舞ってほしいものですよね。

>keyakiさん、
クーラに関しては、私はかって彼が歌ったプッチーニのアリアのCDを聴いてから、まったく受け付けなくなりました。演技以前の問題ですね(笑)。

投稿: Orfeo | 2005/11/11 12:00

Orfeoさん、こんにちは。

思い立って、昔のビデオを引っ張りだしました。記事をいつものようにリンク&TBしましたので、よろしくお願いします。TB、まだ反映されないみたいですが、全然行ってませんか?

投稿: edc | 2007/05/24 08:32

Orfeoさん:
>オペラ歌手に舞台俳優並みの演技力を求める気はサラサラありませんが、少なくとも自然に振舞ってほしい

オペラ・ファンが歌手の「演技」を云々する時、いったい何を言ってるんだろう?…と思うことも多いんですが、例えば、ここでの「自然に振舞」うというのは具体的にどういうことなんでしょうねえ?…。いつぞやの歌舞伎とオペラの話じゃありませんが、オペラとか歌舞伎という演劇ジャンルはあくまで因習と様式の支配する演劇形態であり、その中で自然に見える演技を要求するというのは矛盾じゃありませんか?…。
 優れた演出家がオペラに接する時には、ごく大雑把に言って二つの行き方があると思います。

1/例えば、パトリス・シェロー、例えばロバート・ウィルソンの場合のように、自らの専門である演劇部門の演出と、ほぼ変わらない行き方に固執する行き方。これは、シェローやウィルソン、ストレーレル…ペーター・シュタイン、ロンコーニみたいな演劇部門の大口径の演出家たちにのみ許されるやり方で(つまり、それだけの準備期間を要求できるのはごく一部の芝居屋に限られます)、オペラ歌手だろうが芝居の役者だろうが、ほとんど違いのない動き、演技を要求されますね。

2/もう一つの行き方は、オペラというジャンルに特有の因習を、決して排除することなく、むしろそいつを利用し、これを異化していく行き方です。
 この行き方で、僕が舌を巻いちゃった演出が二つあったんですが。一つは1979年だか80年だかエクス音楽祭で見たピエール=ルイジ・ピッツィ演出のロッシーニ《セミラーミデ》。すごい豪華キャストで、モンセラ=カバリエ、マリリン・ホーン、サムエル・レイミー、フランシスコ・アライサ…。カバリエとマリリン・ホーンなんかを共演させちゃって、一体何をやるんだろう?…と思っていると、ピッツィはこの二人を完全にマンガにしちゃった!極端に誇張されたメイク、彼女らにオペラ歌手の典型的な動きをそのままやらせ(つまり、「自然に振舞」うというのとは正反対に)、その因習的なところをとことん誇張した動きをやらせ、あの退屈なオペラ・セリアが、彼女らが登場する毎にもう、爆笑に次ぐ爆笑。うへー。スゴいことをやるなあ!と舌を巻いちゃった。うん、確かに、これは、カバリエとマリリン・ホーンという戦後声楽界でも例外的なアクロバット的とも言えるベルカント技法を持つ歌手を得て初めて有効になる演出だと思いますが、「自然に振舞」うこととは正反対のスタイルを狙って大成功した一例。
 もう一つはルート・ベルクハウスがシャトレ座に発表したポール・デュカの《アリアーヌと青髭》。主役アリアーヌがフランソワーズ・ポレと発表された時、我々はビックリ仰天しちゃったんですが、…というのも、当時子供を産んでからのポレというのがモーレツに太ってまして、すごいまん丸なオバさんになってたわけ。彼女自身だって、オペラ出演を頑に拒否していた時期。まあ、こちらのベルクハウスおばさんはブレヒトのベルリナー・アンサンブルの総監督を務めていたようなおばさんだから、こういう発想をとり易かったと思いますが、彼女はポレを、すごいデブのパンクのお姐さんに作っちゃった。アメリカのヒッピーだとか、ブルース歌手なんかによくいるでしょう、丸まると太った巨大なお姐さんが…、あの乗りね!…。それがかっこいいこと!…。演技なんか、よくあるオペラ歌手の因習的な動きなんだけれど、それが見事に決まってて、なんかパンク集団の女ボスって風で、これは見事だったです。
 …というわけで、僕なんかは、オペラ歌手にはあまり「自然に振舞」って欲しくはないんだよね。どちらかと言うと、最も面白くないのが自然主義的な演技に終始することだと思うんだけれどね。
きのけん

投稿: きのけん | 2007/05/24 13:19


>edcさん
TBありがとうございました。
強制表示させました。

>きのけんさん
どうも。今日はめでたい日なので(?)、忙しいので、簡単に。

まあ、「自然な演技」なんていう表現は、ちょっとあやふやではありますね。ここで言わんとしていたことは、
「リサイタル調はやめろ!」
ってことに尽きると思います。これを延々とやられると、本当勘弁してほしい、ということになります。

今、まったく別の歌手のことで頭を悩ませているのですが、こちらも歌手としての力量は世間が認めている。でも、その演技たるや、幼稚園児レベル。こういうのをどう評したらいいのか、本当に困っているんです。では、なにがそういうふうに見えてしまうのか、突きつめて考えてみると、どうやら、「さまになっていない」ということになるんではないかと。こういうのは、やはり、センスの問題が大きいんだろうなあ、と、感じてしまいます。

ひところは、大げさな身振り手振りがオペラ歌手のトレードマークだったんでしょうが、今は随分違ってきていますよね。最近の音楽学校では、歌手の卵たちに演技論の講義でも受けさせているんでしょうか?その実態も大いに気になります。

投稿: Orfeo | 2007/05/24 15:10

 …うん、でも僕は演出家がちゃんとした仕事をしてないからだと思うんだよね。どんな大根さんだって、演出家がちゃんとやれば、まともに見せることができる。
 その意味でビックリ仰天しちゃったのがバイロイトのクプファー=バレンボイム版《指輪》でジークフリートをやったジークフリート・イェルザレムだったんです。それまで何を見ても、大根以外の何ものでもないと思っていたら、クプファーの手にかかったら、エエーっなんてねえ…。ピエロ・カプチッリもそうだね。あいつ、アッタマ悪いな(笑)なんて思ってたのが、アバドの《シモン・ボッカネグラ》でジョルジョ・ストレーレルの手が加わるやいなや…こちらも、エエーっなんてね(笑)。

>最近の音楽学校では、歌手の卵たちに演技論の講義でも受けさせているんでしょうか?

そんなもん受けん方がよろし(笑)。ロバート・ウィルソン演出版《陰のない女》に出てきたスーザン・アンソニーね。この人は演技の素養なんてたいしてないみたいだけれど、多分バレエか現代舞踊の素養があるみたいで、体がバッチリ決まってるのよ。そう、例えば、ウィルソンみたいな人の舞台に出るにはそういう素養の方が、通り一遍の演技の素養よりよっぽど大事でしょう。
きのけん

投稿: きのけん | 2007/05/25 07:40


・・・納得(爆)。

投稿: Orfeo | 2007/05/25 16:54

 おいおい、そんなに簡単に納得するなよ(笑)。ジョルジョ・ストレーレルの『人間の演劇』(岩淵達治訳、テアトロ社)を読むと、ストレ−レルが、バリトンのフェリーチェ・スキアヴィ(《シモン・ボッカネグラ》のパオロ)から迫られてタジタジという一節があるよ。スキアヴィ曰く。先生は「異化」とおっしゃるが、我々歌手ってものは誰だって役に「同化」しながら歌ってるんだ。先生の言う「異化」とは具体的にどういうことなんだ?…という問いにストレーレル先生が何と答えていたかは…忘れた。あっ、この本、ウチの市立図書館にあるわ。今度調べとくよ。
きのけん

投稿: きのけん | 2007/05/28 21:42

 ストレーレルで思い出したけど、

keyakiさん:
>シェローは、手の位置にもとにかくうるさいそうで
>す。ライモンディが言ってました。

 …というのは、シェローの師匠、ストレーレルから来てると思います。ストレーレルがフランスのラジオのインタビューに出てきた時、確かあれは《後宮…》の時だったと思うんですが、ワタクシは歌手の腕を胴体に縛り付けておきた〜イ!、なんて言ってたんだよね。さてはリハーサルでキャスリン・マルフィターノが派手にやりまくったな…なんて(笑)。
きのけん

投稿: きのけん | 2007/05/28 21:59


・・・いやいや、納得しなくてもいいんですけどね。話がヘヴィーになりそうだったから(爆)。

ストレーレル先生も、オペラ歌手の因習的な身振りには頭にきていたんですね。そりゃそうだよね!

投稿: Orfeo | 2007/05/29 05:48

▼ジョルジョ・ストレーレル『人間の演劇』(岩渕達治訳・テアトロ社、1987)より

 先日わたしは「シモン・ボッカネグラ」の稽古中に、バリトン歌手スキァーヴィから質問を受けた。「僕はちょうどブレヒトを読んでいるところなんですが、いったい歌手はどうしたらいいんでしょう? 彼は役に生きるべきでしょうか、それとも役のかたわらもしくは背後に立つべきでしょうか?」人間的、知的な質問だが、これに答えるのはむずかしい。歌手はいかなる立場をとるべきか?、リアリスティックな立場か(スタニスラフスキー)、叙事的(批判的)立場か、そのどちらでもないのか? 歌手たちは通常、自分の持ち役を、基本的にはスタニスラフスキーの方向をもつメソッドで演じようとすると、絶望的な努力をすることになる。そして結局はそれではやれない。なぜならオペラそのものが論理的でないからだ。演技者が歌うためだ。例えば歌いながら肺病で死んでしまう椿姫がいい例だ。おまけに、台本に共通するあの論理ーー非論理体系。とすれば歌手は役の外に…ではどうやればいいのだ? 役を操縦(コントロール)するのか? どうやって? 役の<外に立って>その役を歌うのか? それはどうやるのだろう?
 批判的に歌うという可能性はあるのだろうか? わたしは歌手ヘルベルト・ハントと彼の批判的ルクルス(ブレヒト=デッサウ『ルクルスの断罪』)を思い出す。彼は、批判的技術を使ってブレヒト/デッサウのルクルスを<批判しーー歌った>。この台本はもともとそうするために書かれているのだ。だが上演の批評は明らかにこのことを理解していないようで、この役に見られた特定の裏声(ファルセット)、ある声楽的な<不完全さ>を歌手生来のものとみなしたのだ。つまりハントを下手な歌手と見做し(…)
(p251)
本当は、これ以下が面白いんですが、「話がヘヴィーになりそうだ」から(笑)
引用:きのけん

 …というわけで、「自然にやれ!」なんて頓珍漢なことをおっしゃる人がいるもんで、オペラ歌手は「絶望的」になっちゃうわけよ(爆)。ストレーレルはそのことがよく判ってる。
きのけん

投稿: きのけん | 2007/05/30 11:22


・・・いやあ、ちょうど、病気で死んでしまう役を体格のいい健康的な歌手が歌っているオペラ映像を見たばかりなんですが、こういうのはもう目を背けるしかないよね。見ちゃうと、どうしても笑っちゃうから・・・(爆)。

演じる方だって絶望的に辛いのかもしれないけど、見るのもかなり辛いなあ。

投稿: Orfeo | 2007/05/30 18:49

>目を背けるしかないよね。見ちゃうと、どうしても笑っちゃうから・・・(爆)

 …だから、笑っていいんだってば!…。そういうのを見て、泣け!っていう方がアタマおかしいんで(爆)。ストレーレル大先生が言ってるのはそういうことよ!

>演じる方だって絶望的に辛い

 …そうそう、これはオペラというジャンルに内在する問題なんだから…とストレーレルは言ってるわけよ。
 《三つのオレンジへの恋》のコメントでもちょっと触れたけど、ロマン期以降、オペラと演劇の間に相当の落差が生じちゃったのは、以後演劇が、なによりもまづ笑わすことを考えていたのに対し、オペラは泣かすことばっかり考えていたからだよね。…ロマン派最大のオペラ作曲家が二人して、最晩年にオペラの行くべき方向を見事に示唆していたというのにねえ…。すなわちワーグナーの《マイスタジンガー》とヴェルディの《ファルスタッフ》。R・シュトラウスがこの方向でもうちょっと頑張ってくれたらよかったのに…。それから、まさにそのプロコフエフ…や《鼻》とか部分的に《ムツェンスク郡のマクベス夫人》のショスタコーヴィチなんかも先鞭をつけていたのに後が続かなかった。
 現代オペラがつまらないのは、作曲家たちがまさにその辺りを読み違えているからなんだよね。というか、連中が馬鹿だから!…おっと、ここは《スティッフェリオ》でジョン・アダムズじゃなかったか!(笑)…。
 折角ブレヒトが、西欧文化に根強く残る偏見、すなわち悲劇を喜劇よりも芸術的に上位に置く通念に抗し、「反アリストテレス的演劇」(…つまりアリストテレスは彼の演劇論〜詩論ではないよ!〜『詩学』で悲劇を喜劇の上位に位置づけたことが尾を引いてるわけよ)を主張して、その辺りを理論づけたというのに…音楽界はまるで聞く耳を持たなかったんだ。
きのけん

投稿: きのけん | 2007/05/31 10:15


・・・現代オペラがつまらないかどうか、もう一作見て確かめたいと思います。今度こそピーター・セラーズです。6月中に記事を出します。

投稿: Orfeo | 2007/05/31 18:30

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» ヴェルディ:スティッフェリオ [雑記帳]
常時巡回ブログのひとつ、Bravissimi!!でのほかほかの感激ならぬ観劇記事に、むかし録画して、最初の質素な教会のたつ荒涼とした景色だけが忘れられないこのオペラを、見てみようという気になりました。なにしろビデオ録画の時代、古くなったビデオは置いておいただけで劣化するらしく、最後まで見られるかがちょっと心配という場面もありましたが、無事見終わりました。いつも参考にさせていただいているOrfeoさんのオペラ・レヴューにもちゃんと載っています。こちらです。この映像の演出、今もロンドン、コヴェントガー... [続きを読む]

受信: 2007/05/23 21:59

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