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2005/07/15

『フィデリオ』(ザルツブルク・イースター音楽祭)

cd-fidelioberlinerNHK BS-2にて視聴。

前年の2002年秋にアバドの後を引き継いで新しいベルリン・フィルの芸術監督に就任したサイモン・ラトルが、満を持して登場したザルツブルク・イースター音楽祭での公演である。無機質的な壁と階段のみで構成された、巨大ではあるが簡素なその舞台同様、ラトルは本来ジングシュピールであるこのオペラから、物語の展開を説明する地のセリフをバッサリと切り捨てている。おかげで当時、賛否両論が渦巻いたという、いわくつきのプロダクションでもある。なにより、レーンホフがここで描く牢獄や囚人たち、並びに体制側の人間たちの様子は、明らかにアウシュビッツを連想させるものだろう。新しい時代の幕開けを告げるには、随分と問題提起の多い舞台を発表したものである。これを勇気ある行動と取るか、それとも蛮行と取るか。芸術と政治の関係はどうあるべきか。これは 20世紀が今日に遺した、否、永遠の課題なのかもしれない。

★★★

フロレスタン:ジョン・ヴィラーズ
レオノーレ:アンジェラ・デノケ
ドン・フェルナンド:トーマス・クヴァストホフ
ドン・ピツァロ:アラン・ヘルド
ロッコ:ラースロー・ポルガー
マルツェリーナ:ユリアーネ・バンゼ
ヤキーノ:ライナー・トロスト

合  唱:アルノルト・シェーンベルク合唱団
管弦楽:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
指  揮:サイモン・ラトル
演  出:ニコラウス・レーンホフ

[  収録:2003年4月、ザルツブルク祝祭大劇場  ]

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コメント

…それは…だね。ラトルはもう既に1度《フィデリオ》をやってるんで、同じことは繰り返したくなかったんだよ。
バレンボイムだってそうだったよ。最初にパリ管でやった時は極小編成で、まるでモーツァルトみたいにやった。2度目のベルリン=シャトレ座版は正反対のワーグナー編成でやった。これを見て、バレンボイムはベートーヴェンを何も理解してないとのたまわった馬鹿先生がいたのには驚いたけど(ご存知S先生!)、それは彼が前のパリ管版を聴いていなかっただけの話。だいたいなあ、指揮者として、ピアニスト(室内楽+伴奏者)としてベートーヴェンのほぼ全作品を1度は公開演奏したことがある奴に向かって「ベートーヴェンを何も理解してない」ってのは、まったくいい度胸だよな(笑)。
ラトルの前のはグラインドボーン音楽祭=パリ・シャトレ座でやったもので、管弦楽は啓蒙時代管、つまり古楽器団体だったんだよ。だから演出(デボラ・ワーナー)も純然たる芝居の演出家で、なによりもまづ演劇として、台詞の箇所なんか、それこそノー・カットもいいとこで全部やっちゃったんだ。つまり音楽付の芝居としての「ジンクシュピール」を再現してみせたわけ。だから今度はその正反対をやってんだよ。
ただ、パリではすごい酷評だった(笑)。そら当たり前なんで、普通オペラをやってるホールなんかで上演するのが間違ってる。あんなものはオペラの客に見せたって仕方ない。芝居小屋でやるべきだったんです。そこいら、シェローなんかはよーく判っていて、彼がピッコラ・スカラで制作したモーツァルト《ルチオ・シッラ》はパリでは郊外の彼自身の劇場ナンテール・アマンディエ劇場で上演してるんだよね。それも、その直前に上演されたハイナー・ミュラー《四重奏》という芝居の舞台装置をそっくりそのまま使って…。要するにオペラの観客よりも演劇の客に見せたかったわけ…。
ピーター・セラーズも同様、彼のフランス初登場だったヘンデル《ジュリオ・チェーザレ》もナンテール・アマンディエ劇場だった。彼のモーツァルト・ツィクルスは幾つかのホールが奪い合いをしたんだけれど、そこいらへんがよーく判ってるピーター・セラーズは郊外のボビニー市文化会館という演劇と現代舞踊しかやらない劇場をパリ公演に選んでる。要するにオペラ・ファンよりは演劇の客に見せたいわけだね。
そうだ、ロバート・ウィルソンがオペラ座のバレエ団を使ったドビュッシー《聖セバスティアンの順境》(主演パトリック・デュポン)だってオペラ座なんかで初演させず、ボビニー市文化会館でやった。
…というわけで、ザルツブルクなら、所謂「グランド・オペラ」風にやってみようというわけだよね。だいたい、ラトルはパリではいつも演劇専門演出家を使ってる。リュック・ボンディー、ステファヌ・ブロンシュヴェイク、クラウス=ミヒャエル・グリューバー…。オペラ専門の職人演出家なんて絶対に使わない人だぜ。それが、レーンホフだろう!…。
きのけん

投稿: きのけん | 2005/07/16 03:13


なんか、書けども書けども追っつかない、て感じ(笑)。

ラトルの趣旨、おかげでよく分かりました。デボラ・ワーナーと既にやっていたんですね。出来るなら、そっちのほうを観たかったな。

ここで連絡事項をひとつ。コメント欄の設定をHTMLタグ使用不可にして、URLが自動リンクするように変更しました。こっちのほうが、便利ですよね?

投稿: Orfeo | 2005/07/16 06:44

いや、オペラとして、音楽として聴いて面白いかどうかは別問題。なにせ、歌手だって、古楽系の人たち…というか歌も歌える役者って感じだったから。
ただ、あのクラスの人が劇伴奏音楽に専念して振っているという例は見たことがないなあ…。強いて言えば、ジャン=マリ・ヴィレジエ演出モリエールの《いやいやながら医者にされ》のウィリアム・クリスティーくらいかな?。奴さん、17世紀の医者の衣裳を着てレ・ザール・フロリサンを指揮して楽しそうだったよ。
きのけん

投稿: きのけん | 2005/07/16 07:26


クリスティーおじちゃん、カワイイ(爆)。

投稿: Orfeo | 2005/07/16 12:23

 こんにちは!やっぱりあれ、アウシュビッツですか。間違った解釈で一所懸命悩んでましたよ。お恥ずかしい。。。それにしてはあまりアウシュビッツを強調してないですね。ピツァロに軍服着せて、ちょび髭でもつけといてくれないと、オレくらいのもんには分からないよ。ところで、フローレスタンの黄色の腕枷(とでも言ったらいいのか)、ありゃ、なんなんですか?
 それから、日付間違いのご指摘ありがとうございます。とっつぁんのやろう、と怒りながら、父からもらったDVDを見てみますと、ちゃんと2003年になってた。オレの凡ミスでした。。。

投稿: ふじ | 2005/10/06 14:56


ふじさん、どうもです。
いや、現代の管理社会を擬しているというふじさんのご意見も卓見だと思いますよ。なるほどな、と思いました。いわば過去からアウシュビッツを経て現代に至るまでを、レーンホフはここで照射したかったのではないでしょうか。問題のフロレスタンの黄色の拘禁服も、色はともかくとして、長く伸びた腕枷がその連綿たる過去からの束縛を意味しているとも取れます。そこからの解放は、ラトルの新たな出発の決意表明であるのかもしれません。

投稿: Orfeo | 2005/10/06 16:23

こんにちは^^!
先週末、BShiの放送で、全曲を視聴できました。毎度ですた、TBしますので、よろしくお願いします。

投稿: edc | 2007/10/07 08:39


edcさん、どうもです。
TB返しさせていただきます。

投稿: Orfeo | 2007/10/07 18:20

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» フィデリオ ザルグブルグ復活祭2003年 [雑記帳]
だいぶ前に、BS-2でハイライトを見ました。この間、BShiで、再放送でしょうが、全曲放送がありました。おなじみOrfeo.blogのオペラ・レヴューにとても参考になる記事が載っています。それによると、この公演、物議を醸したものだそうです。なるほど、台詞がないです。 そして、無機的で整然とした舞台が、見えないところでどんなに陰惨で冷酷なことが行われているかわからない、底知れない怖さ感じさせます。今現在も複数のどこかに存在しているに違いない思想犯強制収容所的なものを感じます。あくまで書物からの知... [続きを読む]

受信: 2007/10/07 08:29

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